2009年4月30日

家光の墓はなぜ日光に?

  • 3代将軍家光は、家康を神のようにあがめていました。
    その気持ちを形あるものにしたのが日光東照宮の大造営です。
    • 家康は家光が13歳の時なくなりました。
  • 家光のもっていたお守りが現存しています。
    「東照権現、将軍 心も体も一ッ也」(家康公と将軍の私は、心も体も一ッ也)
    「いきるもしぬるも なに事も 大ごんげんさま次第」
  • 家光は死後も家康と生活を共にすることを願い、自分の墓も東照宮につくるように言い残しました。
    大猷院(たいゆういん)です。
    大猷院【画像】
    • 家康、家光以外の将軍は、寛永寺か増上寺にまつられています。
  • 家光は、天海を家康と同列視していました。
    祖父のような親しみを感じていました。
  • 家光は川越に天海を9回も訪ねています。
  • 1638年に、川越大火によって喜多院のほとんどが消失しました。
    家光は、喜多院を再建し、江戸城から客殿や書院を移築しました。
    「家光誕生の間」「春日局(かすがのつぼね)化粧の間」がそれです。
    これらは、江戸城の唯一の遺構です。
  • 家光は、天海が病気になったとき、1ヶ月の間に4回も上野の寛永寺に見舞っています。
  • 家光が、家康と天海が眠る日光に自分も眠りたいと考えたのは当然のことでした。
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  • 徳川家光

2009年4月28日

東照宮にはなぜ虎の彫刻が多い?

  • 祖父家康を熱烈崇拝していた家光は、日光東照宮を全面的に建て替えます。1636年に完成します。
  • 東照宮には実在する動物の彫刻は120体あります。
    虎が最多で38体です。
  • 次ぎに多いのが兎で、19体あります。
  • 霊獣彫刻では、龍が最多です。
  • 徳川3代の将軍のえとは、とら、う、たつと続きます。
  • 「竜虎の戦い」の彫刻はありません。
    虎(=家康)と竜(=家光)が戦う彫刻など、家光には恐れ多すぎることでした。
  • 家康が38歳の時秀忠が生まれました。
    家光は自分が38歳の巳年のときに、男児が生まれるように、天海に念力祈願をおねがいしました。
    4代将軍家綱の誕生です。

2009年4月25日

日光も四神相応(しじんそうおう)の地

  • 平安京、江戸は四神相応の地です。日光もそうです。
  • 北に亀山が鎮座し、東に稲荷川が流れ、南はなだらかに開け大谷川があり、西には中禅寺道が通じています。
  • 鬼門軸には、毘沙門天をまつる外山があります。
    日光を開山した勝道上人をまつる開山堂もあります。
  • 裏鬼門には大黒山があります。
    天海をまつる慈眼堂(じげんどう)もあります。
  • 日光は風水学から見て最適の地にあります。
  • ・・・・・・・・・・・
  • 四神相応とは
  • 平安京の四神相応【画像】リンク切れ修正
  • 江戸は四神相応(しじんそうおう)の地形桑原政則

2009年4月22日

「天皇」とは北極星のこと

  • 北極星は不動の星であり、宇宙を治める神と考えられています。
  • 北極星を、中国では、天皇大帝(てんおうだいてい)と称しました。
  • 日本の天皇という称号の起源と考えられています。
  • 「天子は南面す」といいます。
    北極星を背にするためです。
  • 平安京で、内裏(だいり、天皇の居所)が、都の北端にあるのも、北極星を背にするためです。

2009年4月18日

川越は、気のエネルギーの中継センター

  • 日光には、巨大なパワースポット(龍穴)があります。
    伊勢神宮、熱田神宮などにもパワースポットがあります。
  • パワースポットとはツボのようなもので、気のエネルギーの巨大な貯蔵庫であり、気の噴出する場所です。
    日光からあふれる気を受け止め、江戸に受け渡すのが川越です。
    • 家康をめぐる北斗七星【画像】
      北斗七星が家康(=北極星)の配下となり、頭上をめぐります。日光輪王寺蔵
    • 家康が「神君」とよばれるのは、神であり、君主であるからです。
    • 「東照大権現」とは、神のことです。
  • 川越は、武蔵野台地の北の端にあり、荒川という龍と入間川という龍をおさえる場所にあります。
  • 川越は、2頭の暴れ龍をおさえ、日光からの気のエネルギーをしっかり江戸に送り込む気の中継所です。
  • 川越の喜多院当主でもある天海は、北極星である神・家康が、日光、川越を経由して、江戸を守るというしかけをつくりました。

2009年4月16日

江戸の町はうずまき型

江戸の水路

  • 江戸の町は、うずまき型になっています。
    平安京のような碁盤の目状ではありません。
  • うずまき型は、気のエネルギーをさらに活性化する働きがあります。
    日光から龍脈を通って来た気のエネルギーは、うずまき型の江戸で高まります。
    • 東照宮や伊勢神宮にも龍穴があります。
  • このしかけの影に天海がいました。
  • うずまき型都市の実利は、次のようです。
  1. うずまきだと無限成長できます。
  2. 敵から攻められにくく、守りやすいです。
  3. 火事の時には、堀が引火を最小に防いでくれます。
  4. 堀船で物を遠くまで運ぶことができます。
  5. 堀を掘った土で、低地を埋め、海を陸に変えることができます。

2009年4月14日

裏鬼門に増上寺

増上寺は裏鬼門に

  • 天海は、江戸を守るために別の所にあった増上寺を裏鬼門に移しました。
  • 増上寺は、徳川家の大事な菩提(ぼだい)寺です。
    菩提寺とは、先祖代々の墓という意味です。
  • 徳川家は浄土宗で、増上寺は江戸の中で最も古い浄土宗の寺です。
  • 1616年死期の迫ったことを悟った家康は、天海ら3人を枕元に呼んで指示しました。
    「わたしの遺体は駿河の久能山(くのうざん)にほおむり、葬儀は増上寺でおこない、…、1周期が過ぎてから、日光に小堂を建ててまつりなさい」
  • 6人の将軍がミイラのあぐらの姿勢で裏鬼門を守り続けていました。
    2代秀忠、6代家宣、7家継、9代家重、12代家慶、14代家茂です。
    1960年ごろこれらの墓は改葬されました。
    • 家綱、綱吉、吉宗、家治、家斉、家定の6人は寛永寺で、表鬼門を守っています。
    • 家康と家光は日光です。
  • 増上寺

2009年4月12日

天台宗って?


本殿に「おびんづるさま」
「なでぼとけ」ともよばれます。自分の体の悪いところと同じ場所をなでると、よくなります。

喜多院の本殿



天海僧正お手植えの槙(まき):「天台宗では、神仏習合といい、神様と仏様を同じく礼拝します」との立て札が

本殿横に「大黒天」

本殿前横に「苦ぬき地蔵」

聖徳太子をまつる「太子堂」


白山神社

喜多院の境内に仙波東照宮

喜多院前に日枝神社

龍池弁財天(たついけべんざいてん) 【地図】

  • 天海の天台宗は神仏教(かみほとけきょう)です。
    仏教以外の多くの神や民間信仰を旺盛にとりいれています。
  • 「山川草木悉皆有魂(さんせんそうぼくしっかいゆうこん)」で、動植物や自然にも魂があると考えます。
  • 喜多院には、七福神の大黒様がまつってあります。
    苦ぬき地蔵もあります。
    太子堂、多宝塔、白山神社もあります。
    同じ敷地に東照宮があります。
    日枝神社は喜多院の前です。
    弁天様もあります。
  • 天台宗は、ヒンドゥー教の影響も強く受けています。
    ヒンドゥー教には、何百万という多くの神々がいます。
    そしてその神々の上に唯一の神がいます。
  • 天海は、家康を「東昭大権現(とうしょうだいごんげん)」という神様にし、250年以上にわたり徳川家の安泰をはかり、日本に平和をもたらしました。
    世界史上希有なことです。
    徳川家では、家康だけが神で、あとの将軍は仏です。

2009年4月9日

なぜ、上野に桜?

上野の花見、2003年4月6日

不忍池の弁財天

比叡山と東叡山

江戸
比叡山 →  東叡山
延暦寺 →  寛永寺
琵琶湖 →  不忍池
竹生島の弁財天 →  不忍池の弁財天
吉野の桜 →  上野の桜
御所 →  輪王寺
鴨川 →  隅田川
  • 上野は花見のまっ盛りです。
    天海は上野に桜を植える必要がありました。
    朝廷政治に対し、武家政治を確立し、江戸を守るためです。
  • 天海は、京に対抗するいろいろなしかけをつくりました。
  • ----------
  • 京の鬼門を封じているのは、比叡山、またその中の延暦寺です。
    • 天海は川越の東叡山を江戸の鬼門帯にある上野に移し、東叡山寛永寺を開きます。
  • 比叡山は琵琶湖を従えており、竹生島(ちくぶじま)には弁財天がまつってあります。
    • 天海は、不忍池(しのばずのいけ)を琵琶湖に見立て、弁天島をつくり、弁財天をおきました。
  • 京には御所があります。
    • 天海は、御所代わりのものを必要としました。輪王寺(りんのうじ)です。初代の当主は、天皇の皇子でした。
  • 天皇の聖地は「花の吉野」です。
    • 天海は、江戸にも「花の聖地」を必要としました。
      これが「花の上野」誕生秘話です。

2009年4月7日

川越は江戸の母

「東京都千代田区赤坂にある日枝神社の本社です」:川越の日枝神社の説明板

  1. 1457年、太田道灌は、川越城を築きました。同年に江戸城を築きました。
  2. そのとき、川越の日枝神社を江戸城内に分祀しました。
    100年以上ののち、天海は、 日枝神社を江戸城内から赤坂の位置に移しました。 
  3. 関東天台宗総本山である喜多院の東叡山(とうえいざん)という山号を上野の寛永寺に移します。
    これにより寛永寺は、関東の天台宗の総本山となり、やがて比叡山より強力になります。
  4. 幕府が開かれたころの江戸は、湿地帯で人が住めるような所ではありませんでした。
    江戸城はほぼ海に面していたような状態でした。
    台地はといえば、水の便が悪く、農業もできませんでした。
    川越よりはるかにちっぽけな村にすぎず、人家も100戸ほどでした。
    家康は居城を小田原か鎌倉に定めると思われていました。
  5. 川越、喜多院の天海が江戸の町を設計しました。
  6. 歴史的には、「川越は江戸の母」です。
  • ----------
  • 台地では、農業ができず、馬や牛しか飼えなかったことは、地名に残っています。
    • 牛込、駒込、練馬、馬込、駒沢、上馬、下馬

2009年4月4日

江戸の台地と歴史

5台地を従えた江戸城、近くまで海が

  • 1590年、家康は、北条氏を滅亡に追いやります。
    秀吉の命により、東海5カ国(三河、遠江、駿河、甲斐、信濃)から関八州に国替えとなります。
    関八州は、相模、武蔵、安房、上総(かずさ)、下総(しもうさ)、常陸、上野(こうずけ)、下野(しもつけ)のことです。
    関八州【地図】
  • 家康は、江戸の中核となる江戸城を上野台地、本郷台地、麹町台地、麻布台地、品川台地に囲まれる土地にしました。
  • このころの江戸は、川越よりはるかにさびれた漁村でしたので、だれもが驚嘆しました。
    いまの大手町は芝崎村という岬ですぐ近くが海でした。 
  • ---------- 【江戸の歴史】
  • 秩父出身の江戸太郎は、源頼朝に重用され、その勢力は、いまの千代田区、台東区、文京区、港区、新宿区まで及んでいました。
    ここに江戸太郎は江戸城のもとになる江戸館を建てました。
  • 太田道灌(1432―1486)は、1457年に川越城を築いたあと、江戸館跡に、江戸城を築きました。

2009年4月3日

江戸は四神相応(しじんそうおう)の地形 

四神相応の地形四神【画像】

四神相応(しじんそうおう)の地形 

  • 家康は、居城を構えるに適当な場所を天海にくまなく調べさせました。
  • 天海は関八州のなかから四神相応の地形をもつ場所を探し出しました。
    それが江戸です。
    • 関八州
      • 相模=神奈川
      • 武蔵=埼玉・東京
      • 安房・上総(かずさ)・下総(しもうさ)=千葉
      • 常陸=茨城
      • 上野(こうずけ)=群馬
      • 下野(しもつけ)=栃木
  • 四神相応とは、陰陽学(おんみょうがく)で、土地が栄え、人間がしあわせにくらす条件を備えた地形のことです。
    • 陰陽学は、いまの天文学、地理学、哲学をあわせたような学問です。
      風水(環境学)もこの一部です。
    • 陰陽道(おんみょうどう)をきわめていた天海はのちに「江戸の陰陽師(おんみょうじ)」とよばれます。
  • 江戸は、北に丘陵があり、東に川が流れており、南が平野や水のたまり場で、西は東海道などの大道があり、理想的な四神相応(しじんそうおう)の地です。
  • しかし、江戸が居城に決まったとき、世間は驚愕しました。
    草深い何もないへき地だったからです。
  • ---------- 
  • 寝殿造りも四神相応です。
  • 相撲の土俵の房の色も四神をあらわしています。
  • 玄武(げんぶ)はカメの甲に蛇が巻きついた形をしています。
  • ----------
  • 十二支のページ桑原政則

2009年4月1日

天海の年譜

喜多院の天海像

  • 1536年
    会津で誕生します。
  • 1546年 11歳
    出家します。
    寺は天台宗の円仁(えんにん)創建の古刹(こさつ、古い寺)です。
    円仁は、最澄の弟子で、最後の遣唐使でした。天台宗を完成させた世界的な偉人です。
  • 1549年 14歳
    比叡山に入山します。
  • 1558年 22歳
    実母死去のため、一時会津へ帰郷します。
    その後、栃木の足利学校に入り、儒学、漢学、易学、国学、経済学、天文学、医学、兵学を学びます。
  • 1571年  36歳
    比叡山延暦寺が信長により焼き打ちに会いました。
    天海は、 明智光秀の世話で、山門の衆徒を引き連れて、信玄の元に身を寄せました。
    武田信玄に招かれ、天台宗について講義をしました。
  • 1573年
    会津に戻り4年間滞在します。
  • 1577年 41歳
    この年から5年間、群馬県の寺で修行を積みます。
    このように若いときから、天海は流浪の学問僧でした。
  • 1590年 54歳
    関東有数の大寺院、川越の無量寿寺に移ります。
    無量寿寺は円仁(えんにん)の創建になるものです。11歳で入ったお寺も円仁がひらいたものでした。
    無量寿寺は天台宗の関東総本山で580の寺を従えていました。
    しかし、このころは北院も中院も荒れ果てており、南院は墓地を残すのみでした。
    この年天海は、初めて江戸入りを果たした家康に謁見します。老体の無量寿寺の住職に代わってのことでした。 ここから天海の飛躍が始まります。
  • 1599年 64歳
    無量寿寺北院の住職になります。
    のちに喜多院、三興の祖といわれます。
  • 1600年 
    関ヶ原の戦いで家康の参謀をつとめます。
  • 1603年 68歳
    天海は家康に登用されます。
    江戸幕府開幕の年です。
  • 1607年
    この年から5年間家康の計らいで比叡山探題奉行となり、経営の秘訣を学びます。
    内輪もめの激しかった延暦寺を再興します。
    探題(たんだい)とは、宗教の最高の権威者のことです。
  • 1608年
    駿府城で家康に「山王一実神道(さんのういちじつしんとう)」を講義します。
    この後もしばしば家康に招かれ講義をします。
    家康(1542-1616)の将軍としての在職期間は1603年から1605年までです。
    その後は大御所として駿河に移ります。
    駿河は、京都と江戸の中間にあり、両方ににらみをきかせることが出来ます。
  • 1609年 74歳
    天海は天台宗の権僧正(ごんそうじょう)になります。
    権僧正は、大僧正、僧正に次ぐ地位です。
  • 1611年
    家康、川越に天海を訪問します。
  • 1612年 78歳
    天海は、家康の指示で、川越の無量寿寺北院を喜多院と改め、喜多院を関東天台宗の総本山に定め、山号を東叡山とします。
    家康は、関東天台宗の全権を喜多院に与えます。
    これにより家康は、朝廷側の比叡山の勢力を関東に移すことに成功します。
    家康は喜多院に天海を訪ねます。
  • 1613年 
    日光山の貫首(かんじゅ)も兼ねます。
    貫首とは、天台宗の大きなお寺の住職のことです。
  • 1616年 
    家康が死去します。
    葬儀の導師となり、静岡の久能山に葬ります。
    大僧正に任ぜられます。
    このとき家光は13歳です。
    家光は生涯で9回喜多院に天海を訪ねます。
  • 1617年 81歳
    家康に神号が朝廷から贈られます。
    天海の主張通り「東昭大権現」となりました。
    天海は導師となり、家康の遺骸を日光に移します。
    儀式は「山王一実神道(さんのういちじつしんとう)」でおこないます。
  • 1618年
    江戸城内に東照宮を勧請します。
  • 1623年
    2代将軍秀忠(1578-1632、在職1605-1623)が死去します。
    家光(1604-1651。在職1623-1651)が後を継ぎます。
    天海は、秀忠、家光の政治顧問格でした。
  • 1625年 90歳
    上野に寛永寺を建て、山号を喜多院から遷座し東叡山とし、関東天台宗総本山にします。
    喜多院の山号は以前の星野山にもどします
  • 1637年  102歳
    寛永寺において活字版大蔵経(だいぞうきょう)の開版を企てます。
    12年後に完成します。
    全6323巻です。
  • 1638年 103歳
    川越大火で、喜多院が全焼します。
    家光は自分の大切にしてきた誕生の間、春日局の間を江戸城の紅葉山から移築します。
    「家光誕生の間」「春日局の間」がこの世に残る江戸城の遺構です。
  • 1643年 108歳
    10月2日、天海死去します。
    1648年には慈眼大師の号を朝廷から賜りました。
  • (年齢は数えで1月1日生まれ換算です。)