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比叡山中興の祖、天海

1607年から5年間、天海は、家康の依頼で
比叡山の探題(たんだい)となり、
内輪もめの激しかった延暦寺をまとめました。

探題とは、宗教の最高権威者のことです。

天海は朝廷にもしばしば招かれました。
『源氏物語』を講義に参加したり、碁を打ったりもしました。

天海の名声が上がるにつれ、
叡山には学僧があつまり
昔のように盛んになりました。

天海は、比叡山中興の祖とよばれるようになりました

天海大僧正の説明版 @比叡山、2009
天海大僧正の説明版:(説明文)。

「徳川家康公の信任厚く、
黒衣(こくい)の宰相と言われる。

比叡山をふりだしに、全国を修行して歩き、
再び比叡山を志したとき、
織田信長の比叡山焼き討ちにはばまれた。

後、武田信玄の帰依(きえ=信仰)も受けた。

家康公に山王一実神道(さんのう いちじつしんとう)を説いた。

秀忠、家光と三代の将軍について幕政に参画、
政権確立に貢献した。

日光山を与えられ、この造営に尽くし、
また上野の寛永寺を開山した。」

 慈眼大師 天海大僧正 住坊跡の碑
 慈眼大師 天海大僧正住坊跡の碑

ここに73歳から4年間独居します。
 「大師」の称号は、天台宗では、天海以降いままで誰も贈られていません。

慈眼大師、天海大僧正について
 慈眼大師、天海大僧正について:(説明)

「徳川家の三代にわたって宗教、政治の
ご意見番として活躍した天台宗の傑僧で
この地、南光坊に住す。

織田信長の叡山焼き討ち後の比叡山の復興に力を入れ、
現代の根本中堂、大講堂などは
天海大僧正が家光を説いて
再建が果たされたもので、
比叡山延暦寺の大恩人とあがめられている。

東叡山寛永寺を開山して、
比叡山の教学を関東に定着させ、
日光山をも造営した。
長寿の人で、この南光坊には73歳から4年間住んだ。」
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天海は、関西、京都、比叡山では、
「比叡山中興の祖」
とあがめられています。

信長によって焼き討ちされた比叡山を再興したのが、天海です。