2011/06/13

天海、会津でうまれ11歳で僧侶に

天海は1536年に会津美里町に舟木景光夫婦との間に生まれました。
幼名を兵太郎といいました。

父は高田城主である葦名盛常の筆頭家老でした。
<*  高田城は現・高田中学校の北側>
母は城主の娘でした。

天海は葦名一族出身ということになります。

葦名氏は、会津を400年間治めていた大名です。
最盛期には新潟東部から会津地域、中通り地方をほぼ従えていたといわれています。

8歳の時、父が暗殺されました。

天海は、11歳の時、生家から5分の龍興寺で出家しました。
龍興寺は天台宗です。
随風(ずいふう)と称しました。
3年間ここで修業しました。
天海の僧としての始まりは龍興寺ということです。

天海生誕地 @会津美里町公民館前


天海肖像画 @会津美里町公民館前


 天海像 @会津美里町公民館前
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14歳のときに修行に出ます。
下野国宇都宮の粉河寺で修業します。
18歳の時、比叡山で学びます。

1558年、23歳の時、病気の母の看病のために会津に戻ります。

母の死後、足利学校で学びます。
ここでの漢学や易学の見識を深めます。
このころの僧侶は、哲学者、総合医のようなものでした。

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1573年、天海は、蘆名盛氏の求めで会津に戻り、10年ほど黒川稲荷堂(現・鶴ヶ城内)の別当をつとめます。
黒川稲荷堂の別当は、代々龍興寺が勤めていました。
別当とは、他に職をもつ人が、別のところの最高責任者になることです。

1589年、蘆名氏は伊達政宗に滅ばされます。
このとき、天海は領主の葦名義弘を常陸(茨城県)へ送ります。
自身は常陸・江戸崎にある不動院の住職になります。
<* 伊達政宗と天海の友好関係はあり、正宗の天海宛ての書簡も残っています。 >

天海は、蘆名氏の後継者を将軍家に謁見させる労もとっています。

【cf.】
龍興寺・筧光海住職の講話。
高橋充「蘆名氏と天海僧正」2011年6月9日
会津美里町観光協会などの郷土資料。
2011年5月、6月における地元での聞き取り。
(ご協力ありがとうございます。)

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