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流浪の学問僧、天海

1558年22歳のとき、天海は母親の介護のため、一時会津へもどります。

その後1560年から4年間、栃木の足利学校に入り、史記、儒学、漢学、易学、国学、経済学、天文学、医学、兵学を学びました。

1565年には、群馬県太田市世良田(せらだ)の長楽寺で学びます。
長楽寺は新田義季が開山したものです。
世良田は、徳川氏の発祥の地とされています。
長楽寺は、別格の寺で会津の寺々もここを本山としていました。


ずっと下って、1640年に天海は長楽寺を再興し、天台宗に改めます。
長楽寺は末寺700余ヶ寺を擁する大寺院となりました。
1643年には東照宮を勧請しました。

1571年36歳のとき、天海は比叡山近くの明智光秀のもとに身を寄せて、比叡山を志しました。
比叡山は、当時は織田軍のきびしい管理下にありました。
光秀の書院で蔵書を渉猟したりしながら9ヶ月ほど在城し時を待ちますが、比叡山延暦寺は、織田軍により焼き打ちにあいます。

延暦寺とは、比叡山にある多くの寺の集合体のことです。
天海は延暦寺の僧などと、武田信玄の元に身を寄せます。
甲府では1年ほど滞留し、武田信玄に天台宗について講義したりしました。

武田信玄は名前が示すように、僧侶でもあり、天台宗を信じていました。
このように天海は、若いときから、あちこちを流浪する学問僧でした。
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長楽寺 1221年徳川義季(よしすえ)が開山。
太田市は鶴(群馬県)の首にあたります。

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