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大道寺政繁。後北条氏の重臣で、河越城代をつとめる <川越の先人

大道寺政繁。後北条氏の重臣で、河越城代をつとめる    <川越の先人
大道寺政繁。女浮世絵師画。
安中市学習の森にて。 2012/12


・1533年~1590年8月18日没。57歳


後北条の勢力図  (※)

後北条は、
小田原北条、
戦国北条ともいわます。
【※】鎌倉幕府の執権をつとめた北条と区別するためです。

1491年~1590年の100年間にわたり、戦国大名として君臨します。
初代・北条早雲(伊勢 宗瑞、いせ そうずい
2代・氏綱、
3代・氏康、
4代・氏政、
5代・氏直と続きます。


大道寺家は北条早雲以来の後北条氏の重臣です。
出自は京都の綴喜郡(つづきぐん)大道寺村とされています。

政繁の祖父、および父は、1546年の河越夜戦(かわごえよいくさ)で、上杉勢に勝利します。

これにより太田道灌の築城より90年続いた
上杉氏の河越城支配は終わりを告げます。


大道寺政繁(だいどうじ まさしげ)は3代北条氏康、4代氏政、5代氏直の3代に仕えます。
「政」の字は氏政から与えられ、政繁と名乗るようになりました。

坂戸宿を開き、現在の坂戸市発展の礎を築きました。

大道寺氏は以来1590年まで3代40年間にわたり河越地域を支配します。

大道寺
政繁は、祖父、父を継いで河越城の城代となります。
城代とは、城主の補佐役、代理です。


軍団「河越衆」を率い、北条氏の主要な合戦で先頭に立ち、武功を挙げました。


1582年(天正10)の本能寺の変ののち、後北条の関東北方支配強化策の一環として、
河越城の城代を務めながら、松井田城(群馬県安中市)の城主を兼帯します。
信州佐久一帯を制圧します。
信州侵攻中の徳川家康との講和により、松井田城に在城します。

当時河越城と松山城(現・比企郡吉見町)は後北条の北関東攻略の前線基地でした。


1590年の豊臣秀吉の小田原の戦いで、大道寺政繁は松井田城を守るも、
前田利家、真田昌幸ららに攻められ降伏します。

その後豊臣方に協力します。
忍城(おしじょう)攻めの道案内をつとめます。

武蔵の松山城、鉢形城、八王子城の攻略戦に加わリます。


しかし豊臣秀吉に、北条氏政らと同じく、開戦の責任をとがめられ、
川越の常楽寺にて切腹を命じられ自害
します。


政繁は子孫を多く残しました。
山形市には、大道寺姓が多くあります。

大道寺氏の古文書が川越に少ないのは、そのころ河越城は、単なる軍事拠点、兵隊宿舎であり、所領ではなかったからでした。

わずかに川越の松郷(まつごう)と今成(いまなり)だけが大道寺領でした。
他は小田原の北条が直轄していました。
大道寺氏は、軍事の専門家で、河越では政治はおこないませんでした。


河越城は、玉縄城(鎌倉市大船)の属城のようなものでした。
玉縄城主の北条為昌、綱成が河越城主も兼ねていました。
河越夜戦のあとは、北条氏は大道寺盛昌を城代にしました。

河越城代は、大道寺盛昌、周勝(かねかつ)、資親、政繁、直繁とつづきます。

徳川家康の豊臣秀吉への強い懇願で、大道寺政繁の子供らは家康預かりの身となり、
大道寺政繁の長男は将軍・徳川秀忠に仕えます。


大道寺政繁は、蓮馨寺(れんけいじ)を川越に移しました。
蓮馨寺は、大道寺政繁の母・蓮馨尼(れんけいに)によって開かれたものです。

蓮馨寺は、徳川家康により、関東18壇林(僧侶養成大学)のひとつに定められ、葵の紋所が許されました。
格式が高く、川越の殿様でも、旗、槍をたおし目礼してから、蓮馨寺の門前を通ったといわれています。

◇                    ◆                    ◇

川越市の見立寺(けんりゅうじ)は、大道寺正繁が開いたものです。
川越市の常楽寺(地図)に墓と供養塔が残っています。

安中市・松井田の補陀寺(ほだじ)に墓があります。
青森県の貞昌寺に供養塔があります。

川越市の常楽寺の供養塔


【参考】
大図口承 (おおず こうしょう)「河越城代大道寺氏について」川越市立博物館歴史講座、2011年10月23日、他

【追】
調査の深化により、歴史は書き換えられます。
島原図書館、福井県小浜の図書館にも川越に関する古文書がうずもれているようです。
大道寺氏については、さらに新しい事実が生まれつつあります。


*     *     *

北条氏康(1515 - 1571、56歳)

(※)http://www.geocities.jp/woodone3831/c-1-3-4-11-siro-odawara.html