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1612年 喜多院、関東天台宗の総本山に


川越の無量寿寺(むりょうじゅじ)には、北院、中院、南院の3子院がありました。
<*  無量壽とは量りきれない寿命をもった阿弥陀如来のことです。>

1612年、家康は、川越の北院を喜多院と改め、喜多院を関東天台宗の総本山に定め、山号を東叡山(とうえいざん)に変更します。

関東の天台宗を、総本山である朝廷側の比叡山から分立させ、天海の管轄下に置きました。

こうして喜多院は、比叡山延暦寺より上位になり、天台宗の本山的な寺として崇敬を集めることになります。

天台宗の末寺をしっかり統制するために本山(喜多院)には強い権限が与えられました。

1614年には、幕府は「関東天台法度」(はっと)をさだめ、関東の天台宗の全権を天海がにぎるようにします。法度とは、法令のことです。

この段階で天海は名実共に天台宗の第1人者になりました。

その後、家康は、喜多院に約15万平方メートル(東京ドーム3個分超)を寄進しました。
川越に突如大寺院が誕生することになりました。

家康は、6才年上の天海をよほど信頼したのでしょう、喜多院をたびたび訪れました。

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