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平清盛。武士と貴族の頂点に立つ。神戸港で日宋貿易。貨幣経済をもたらす。厳島神社。3月20日没

平清盛。武士と貴族の頂点に立つ。神戸港で日宋貿易。貨幣経済をもたらす。厳島神社。3月20日没 
source:『天子摂関御影』。宮内庁三の丸尚蔵館
・1118年~ 1181年3月20日没。満64歳

平清盛(たいら の きよもり)は、
1156年の保元の乱を経て、
平治(へいじ)の乱で源氏をおさえて、
太政(だいじょう)大臣に
登りつめます。

1156年の保元(ほうげん)の乱は、
    後白河(ごしらかわ)天皇
    崇徳(すとく)上皇
との争いです。
両グループとも、平氏、源氏の武士に加勢をたのみました。

【※】受験  1156年  保元の乱 ◇ いいころ保元、後白河
*後白河が崇徳上皇をくだす。平清盛、源義朝の進出のきっかけに。


後白河天皇方が勝利します。
後白河天皇についたのは、平清盛、源義朝です。

この乱により、公家の世から武家の世が来ることになります。


1159年の平治の乱は、平清盛と源義朝との京都でのたたかいです。
平清盛が勝ち、源義朝は殺され、息子の頼朝は伊豆へ流されました。
平清盛は、頼朝を助命しました。

【※】受験  1159年  平治の乱  ◇ いちいちご苦労、平治、清盛

清盛は、のちに後白河上皇と対立し、院政をやめさせました。


清盛は思うがままの政治をおこない、
「平家にあらずんば、人にあらず」といわれる
平氏一色の世の中を
つくります。 

1168年、満50歳の時、熱病で生死の境をさまよい、出家します。

厳島(いつくしま)神社を造営します。


清盛は、西国を基盤に、対宋貿易に積極的にとりくみます。
茶、陶磁器、生薬などを輸入します。
宋との貿易のもとでになったのは、奥州でとれるようになった金です。


1171年、平清盛は、娘を、高倉天皇の后にしました。

高倉天皇は、清盛のあやつり人形です。
7歳で即位し、20歳で退位し、翌年なくなりました。

1180年、娘の子・安徳天皇を即位させました。


平治の乱のほぼ20年後、
源頼朝が1180年伊豆で旗揚げします。
富士川の戦いでは、平家軍を戦わずして敗走させます。


各地で源氏が挙兵するさなかに、
平清盛は熱病に感染しなくなります
遺言は「伊豆の流人(るにん)、頼朝の首をわが墓の前におくべし」です。


1185年、平家は壇ノ浦でほろびます。

平清盛 武士の世の中へ  NHK


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・ 平清盛と西行(さいぎょう。歌人)は同年の1118年生まれです。

・ 平氏の政権はなぜ短命だった?
経済力はもっていましたが、武士が世の中を動かすことがわからず、
貴族政治を続けた
からです。

平氏の政権は20年足らずで終わりますが、
源氏の政権は100年以上も続きます。

源氏の政権は、公家の京都から都を鎌倉に移します。
政権の基盤を、公家ではなく、武士に置きます。


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★ 平氏も源氏も祖先は皇族

平氏は、祖先は皇族です。
桓武(かんむ)天皇の血を引く桓武平氏です。
桓武天皇の時代に、臣籍降下(しんせきこうか)したので桓武平氏とよばれます。
臣籍降下は、財政の負担をへらすために、皇族の数を減らす策でした。


 川越の河越重頼も桓武平氏の傍流・秩父平氏の一族です。
河越重頼
源氏も、祖先は皇族です。清和源氏が有力です。
皇族は、姓をもっていません。臣籍降下して姓を持つようになります。

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観光スポット
・京都
・神戸: 都を移そうとしたところです。
・山口市、壇ノ浦: 源平合戦
・広島県、宮島の厳島神社:平清盛が造営