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読谷にみる沖縄史


旧陸軍の掩体壕(えんたいごう)。読谷村(よみたんそん)
 <*  掩体壕(えんたいごう)とは、射撃がしやすいように射手などの行動を掩護(えんご)する壕(ごう)のことです。>

1420年頃、読谷村(よみたんそん)をはじめとする沖縄中部をおさめていた護佐丸(ごさまる)は、読谷に座喜味(ざきみ)城を築きました。
その頃読谷村は、中国との貿易でさかえていました。
中国は琉球王国を保護下においていましたが、与えるばかりで奪うことはありませんでした。

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読谷村の位置  src:読谷村

1609年、薩摩が100隻の船に3000人の兵を乗せ、読谷から首都の首里へ進軍し、沖縄を属領にしました。
これを「薩摩の琉球侵攻」といいます。

力のおとろえていた中国はなすすべもありませんでした。
以後250年間以上も、琉球王国は薩摩の苛斂誅求(かれんちゅうきゅう)に呻吟(しんぎん)します。

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1879年(明治12年)、琉球王国は、廃藩置県により、「国」から「県」へと格下げになりました。
これを琉球処分といいます。

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1943年日本軍は読谷の地を接収し、滑走路3本の「沖縄北(きた)飛行場」を建設しました。
読谷のすぐ南の嘉手納には北飛行場の補助飛行場として「沖縄中(なか)飛行場」を建設しました。
 <*  飛行場の滑走路には、川越からの砂利が使われました。>

1945年4月1日、アメリカ軍は沖縄北飛行場と中飛行場の占領を第1の目的にし、18万人の軍勢で読谷などに上陸しました。
住民の4人に1人が死亡するという沖縄戦が始まったのはこの地からでした。

読谷村は壊滅しました。

怒濤のごとく押し寄せ上陸する米軍艦
沖縄戦に関する米海軍写真 320枚。沖縄県公文書館

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戦後、アメリカ軍は沖縄を占領し、読谷の飛行場を接収し、読谷全域を基地化しました。
今でも村の半分は基地です。

沖縄が日本にふたたび帰属したのは、1972年のことでした。


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