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李登輝と台湾の民主化 (35,000字)

李登輝と台湾の民主化

Dr.Lee Teng-hui and the domocratization of Taiwan

 桑原政則 1999年

目  次

キーワード
略語
中国語の日本語訳
台湾地図
台湾史年表

はじめに

第1章 西欧、清、日本統治下の台湾
  1 台湾の原住民
2 西欧支配下の台湾
3 鄭氏政権と清国
4 客家
5 福建省
6 漢字が漢文化圏のきずな
7 日本植民地下の台湾
8 李登輝の読書歴

第2章 国民党時代の台湾 (別ページヘ)

1 2・28事件と蒋介石
2 外省人
3 戒厳令
4 李登輝、日本、台湾、アメリカを体験
5 李登輝、コーネル大から博士号
6 台湾、国連を脱退
7 蒋経国時代のはじまり
8 李登輝、台北市長に
9 李登輝、台湾省政府主席に
10 李登輝、副総統に
11 戒厳令、解除

第3章 李登輝の台湾  (別ページヘ)

1 李登輝、総統に
2 李登輝、総統に再選
3 李登輝、2・28事件45周年行事に出席
4 台湾と韓国
5 李登輝、党主席に再選
6 台湾の歴史、地理を知らされない学生
7 李登輝、台湾人の悲哀を語る
8 李登輝、コーネル大を訪問
9 李登輝、初代民選総統に
10 言論自由の時代へ
11 台湾人でよかった喜びの創造へ

おわりに(脱落)


参考文献
地図の説明


キーワード

2.28事件 戒厳令 外省人 国民党 蒋介石 蒋経国 省籍  情報立国 新竹科学工業園区 民進党 本省人 李登輝  

中国語の日本語訳

〇〇部 省 経済部→通産省
〇〇部長 大臣 経済部長→通産大臣
行政院 内閣
行政院長 首相
経済部 通産省
総統 大統領
中央常務委員会 最高決定機関
報禁 新聞新規発行禁止
立法院 議会
両岸関係 台湾・中国関係



 <*  図版、写真は省略>

◇                    ◇                    ◇

はじめに


台湾の400年の歴史は、オランダ、清国、日本、国民党と外来政権の支配史であった。李登輝は、これを台湾人の台湾史にせんとしており、そのためには国民党を台湾人の国民党にしなければならない、と力説する。李登輝は、台湾が台湾であらんとする時、忽然とあらわれ、台湾を、自由化し、民主化し、台湾化し、台湾を国際舞台にひきあげようとしている。
この大事業は、まだ緒についたばかりで、『出エジプト記』のモーゼと人民のごとくまさしく「これからがたいへん」なことである。李摩西(李モーゼ)の役目は、エジプトからのexodusをおこなったモーゼのごとく、台湾人を自由と民主の天地に導くことである。失敗は許されない、台湾民族の消滅につながりかねないからだ。しかも、時間は切迫している。中国が経済発展をし、軍事超大国になる前のここ5年しか、チャンスは残されていない、という識者もいる。
本稿では、台湾の現代史を李登輝を中心に概観しつつ、台湾の民主化の過程について論及する。

第1章 西欧、清、日本統治下の台湾

  1 台湾の原住民

台湾は、400×200㎞のサツマイモの形をした九州の大きさの島である。中国大陸とは200キロ、与那国島とは120キロ、台湾最南端の島とフィリピン最北端の島とは85キロの距離にある。
台湾には漢民族以外に先住の民族がおり、彼らはみずからを1992年から誇りを込めて、「原住民」とよぶようになった。台湾の原住民は、タイヤル人、サイシャット人、ブヌン人、ツォウ人、ルカイ人、パイワン人、プユマ人、アミ人、ヤミ人の9種を数える。言語的には、オーストロネシア語族(インドネシア語派またはへスペロネシア語派)に属する。台湾ではオーストロネシア語を話すこれらの種族を「高山(こうざん)族」、「山地同胞」、「山胞」とよぶ。日本語では、高砂(たかさご)族とよばれた。「高砂族」とは、狭義には、日本植民地時代の先住民に対する総称である。高砂族と呼ばれるようになったのは、1923年に昭和天皇が摂政として訪台したときのことである。
これらとは別に、漢民族に同化し、固有の言語文化を失った種族を、かつては熟蕃、あるいは平原地帯を占拠していたので平埔(へいほ)族ともよんだ。平埔族にはケタガラン族、ルイラン族、カバラン族、タオカス族、パゼッペ族、パポラ族、バブザ族、ホアニヤ族、シラヤ族があるが、漢族系の移住民との通婚や漢族化により漢族の中に埋没融合し、目立つ存在ではなくなってきている。
台湾の最初の都である台南のシラヤ族の言語で台南の海浜の一部をを「タイアン」とよんでおり、これが台湾の名称の由来である。熟蕃に対し、同化しないままの先住民は、生蕃(せいばん)とよばれた。「熟蕃」、「生蕃」は、蔑称であるので、現在は廃止されている。
これらオーストロネシア語族先住民の原郷は、中国大陸であり、大陸から台湾、フィリピンをへて、現在のインドネシア方面やオセアニアに拡散したとするオーストロネシア語族の台湾経由説がある。この説によると、この語族の南下拡散時に、台湾にとどまったのが、また一旦外にでて北上してきたのが、台湾原住民である。(桑原、1989、p.114)原住民は台湾人口2200万の2%、40万人を占める。これらインドネシア系の民族は容貌、体格が日本人に酷似している。筆者は1999年9月ボルネオのクチンで「日本人は、山に住んでいるケラビット族に似ている。きっと、ケラビット族が大昔、北上して日本に入り込んだのでしょう。彼らは今しあわせですか?」とからかわれたことがあるが、どうもインドネシア系民族の基層が日本人のなかに色濃くあるようだ。
原住民には、日本語をよくするものが多い。筆者は1993年台湾本島の東南に浮かぶ蘭島にあるヤミ人の村を訪ねたが、村長格の人は日本語を上手にあやつり、李登輝ととった写真を見せてくれた。また、日本語の名前をカタカナで書いてくれた。ヤミ人はフィリピンのバターン人と同系統で言語もバターン語に近い。筆者のグループの者がタガログ語を話したら、通ずるので双方が驚きあい、あらためてヤミ人はバターン人が北上したものであることを実感した。これら原住民は、多部族に分かれていたため、ついに統一した政権、王権を樹立することができなかった。

タイヤル、ヤミの写真

2 西欧支配下の台湾


15世紀、西欧列強のアジア進出の先頭を切ったのはポルトガルであった。まず、1498年、バスコ・ダ・ガマがアフリカまわりで、インドにたどり着いた。1498年といえば、コロンブスがアメリカ大陸を世界に紹介した6年後、日本では北条早雲が小田原を攻略した3年後のことである。ガマがたどり着いたのは、インド南西端ケーララ州のカリカットである。ガマは、東アフリカから乗せたヒンズー教徒を水先案内人として来航した。彼の上陸地点には,記念碑が建てられている。白の木綿地キャラコの名はカリカットに由来する。
ポルトガルは、1510年にインドのゴア、1511年にマレーシアのマラッカを占領した。さらにアジア航路を独占するため、1537年にはマカオを占拠した。ポルトガル船が種子島に漂着し鉄砲を伝えた翌1544年、台湾海域航行中の船員が緑したたる島影をみてIlha Formosa! (イーリャ・フォルモーザ=麗しの島)と感嘆の声を上げたといわれている。ilhaは英語ではisle、formosaはformに由来し「形(form)のよい」というのが原義である。欧米では今でも台湾をFormosaとよぶのはこのためである。となると、台湾人はFormosanとなり、台湾国は「美麗国」となるわけだが、ここまで敷衍する者はまだいない。
オランダは、ポルトガルにほぼ100年遅れてアジアに進出した。1596年インドネシアのジャカルタに到着した。ジャカルタに東インド会社を設立し、中国、日本との貿易をめざした。1603年オランダ艦隊は、ボウ湖列島(桑原:漢字に訂正→サンズイ+彭)に上陸した。一旦、明王朝から追放されるが1622年再び占領した。
1624年、オランダ艦隊は、ボウ湖列島撤退を条件に、明王朝から台湾全土の領有権を得た。破格の好条件であったのは、明王朝が元々この地を自国領と見なしていなかったからである。漢民族は、福建人をのぞいて、海が苦手で、台湾へ最初に進出したのも、中国ではなく、オランダであった。しかもそれは中国5000年の歴史から見れば、つい最近の1624年のことであった。
オランダは、台湾を当初単なる寄港地と見なしていた。しかし、原住民のとる鹿皮が高く売れ、また砂糖が巨利を生み出し始めると本格的に台湾経営に乗り出し、対岸の福建省からの大量の移民を招来した。オランダ時代の末期には、中国人が5万人いたといわれる。

3 鄭氏政権と清国


1661年、鄭成功はオランダを台湾から追放した。鄭成功は、今でいえば、日中密貿易グループの駐日代表ともいうべき台湾人海賊の親方と、平戸の田川氏の娘の間に生れた。国運の傾いた明朝に招かれ、皇帝から国の姓である朱姓を弱冠21歳で賜わった。この恩に報いるために、それまで38年間にわたり台湾南部を支配していたオランダ人を駆逐した。また、明朝と運命を共にし、最後には台湾に陣取って新しい異民族の清朝に抵抗した。
明の遺臣として38歳で夭折するまで節を曲げなかったという意味で、国民政府からも大陸からも、実際には台湾のために戦ったのではないけれど、大陸反攻の先達として今に崇められている。「成功祠」という祠(ほこら)に祭られている。近松門左衛門の時代浄瑠璃の代表作『国性爺(こくせんや)合戦』は、父が中国人,母が日本人の鄭成功の英雄譚に題材をとった作品である。「こくせん」とは明王朝の姓ということだから、正しくは「国姓」であるが近松は意識的に「国性」と改字した。
1683年清王朝は、明王朝の再興を旗印とする反清復明の鄭氏政権をほろぼした。清朝は満州人にモンゴル人が協力して中国の外につくった連合政権であった。中国人は中国の行政を担当するだけで、満州、モンゴル、チベット、新彊の統治には関与を許されなかった。中国は満州人の植民地にすぎなかった。1863年に清朝に征服された台湾は、満州人の支配下に入ったのであって、中国の領土になったのではなかった。(岡田、p.224)
清朝の第1公用語は満州語であり、必要に応じてモンゴル語と中国語が併用された。なお、標準中国語は、Mandarin(マンダリン)ともいわれるが、これは清朝時代の高級官吏である「満州人のお役人様(満大人=マンターレン)の使う言葉」に由来する。中原地方でおこなわれていた中国方言を満州人などの外来人が数百年にわたって簡略化してできたものが、標準中国語である。(桑原、1997、p.106)
清は台湾の経営には消極的であった。マラリヤなどの風土病も蔓延していたし、212年間の清が支配している間に100件の武力蜂起や騒擾事件がおこっていることから推測されるように、反乱蜂起の地であったからだ。清王朝は台湾が反政府の根拠地、海賊の巣窟になることをおそれて、渡航を厳しく制限し、妻子の渡航も禁止した。
上述のごとく、清朝は、中国人の国家ではなかった。「中国だけを統治していたのではない。モンゴルも、満州も、中央アジアもチベットも統治しており、中国はその帝国の一部にすぎなかった。」(岡田、p.183)それ故、清朝は、辺境ショウレイ(桑原:漢字に訂正→別記)の台湾を統治するつもりはなく、安全保障上占領していたにすぎなかった。

4 客家


清は、広東省は海賊の巣窟であるとの故に、広東省からの台湾への渡航を禁じた。広東省の客家が台湾へ移住するのが福建人より遅れ、山麓などの三等地しか入手できなかったのはこのためである。
客家は、ハッカとよみ、「きゃっか」とはほとんどいわない。「よそ者」という意味であり、いまにいたるも、中国では異邦人である。高木桂蔵の『客家(ハッカ)』の副題は、「中国の内なる異邦人」である。広東省東北部の梅県方言を標準語とする。客家族は、この地域の住民ではなく、4世紀頃より中原や華北から戦乱を避け、数次にわたり南遷してきたと考えられている。移住先では先住の漢民族や少数民族との争いが絶えず、また、山岳の移住地では、生活もままならないので広西チワン族自治区、四川省、湖南省にもさらには、海南島、台湾、東南アジア、北アメリカにも移住した。台湾でも、先住の福建人と後述の「械闘」とよばれる戦闘を諸処で繰り返した。
女性が積極的に戸外労働をおこなうこと、特有の住居形式、かつての犬食の習慣など、漢民族の本流とことなる独自の風習が客家社会にはみられる。団結力が強く、誇り高き中原文化の継承者と自負している。他の漢民族より視野が広く、教育程度も高く教育者、弁護士が多く、「中国のユダヤ人」ともよばれる。
南宋末期忠臣の文天祥、太平天国総帥の洪秀全、孫文、孫文夫人の宋慶齢、毛沢東と共に革命をおこした朱徳、タイガーバームの胡文虎、トウ(桑原:漢字に訂正→登+オオザト)小平、中国解放軍の将軍朱徳、シンガポールのリークアンユー(李光耀)、台湾の李登輝は、いずれも客家出身である。李登輝は客家人であるが、客家語はできず、客家人の意識は薄いという。(桑原、1997、pp.111-112)
オランダの支配の終わる頃の台湾の人口は、原住民が8万、大陸からの移民が2万と推定されている。移住民は鄭氏政権(1661-1683)の23年間に12万人以上に増加した。清朝になると移民は急増し、1800年代末には300万人が暮らす島となった。1942年の日本統治下には、600万を数えており、この他に、日本人が40万人住んでいた。
現在の台湾は、本省人(福建人+客家人+原住民)と外省人からなる。本省人とは、台湾が、1684年清朝の版図に入って以降福建省南部から大量に移住してきた福建人と広東省からの客家人に大別される。人口2200万のうち本省人が9割を占める。
先述のように、かつては台湾では「械闘」をおこなった。械闘とは、同郷人を結集して、闘うことである。ショウ(サンズイ+章)州系、泉州系、客家系、また原住民が加わって、三つ巴、四つ巴で争うこともあった。この械闘が、外部勢力の台湾統治、分割支配を容易にした。

5 福建省


本省人は主として福建省の南半からの移住民である。福建省は、省域の9割を山地、丘陵が占める山岳省で、平地は海岸部と山間部の間の地域だけにすぎず、地理環境は日本に似ている。河谷平野間の交通も不便で、地域内の交流もないため、方言差がいちじるしい。福建省の中央を両断するビン(桑原:漢字に訂正→門+虫)江を境として北と南ではことばが通じ合わない。北、西、南を山脈が覆い、隣接の浙江省、江西省、広東省とも峠によって連絡するほかは、沿岸航路に頼るしかなかった。(参照:福建州の言語地図)
ために、古来より陸の孤島の趣を呈しており、官話系(北京語)、呉語系(上海語)、粤語系(広東語)、客家語系などとも孤絶していた。北京語、上海語)、広東語相互間の基礎語彙の残存語率は70%以上の高率を示すが、ビン(桑原:漢字に訂正→門+虫)語系と北京語、上海語、広東語、客家語系間の残存語率は50%以下であり、言語的にも独立王国として存在してきたことが分かる。漢民族がここにやってきたのは、3世紀の頃で、中国の版図に確としてはいるのは、やっと宋の時代紀元1000年頃のことである。福建省は、もともと中国の中の異国であった。(桑原、1997、p.112)
ビン(桑原:漢字に訂正→門+虫)南系には、ショウ(桑原:漢字に訂正→サンズイ+章)州系と泉州系がある。泉州は、宋、元代には中国最大の貿易港、海のシルクロードの出発点として繁栄した。ベネチアのマルコ・ポーロが、ジパングを知ったのもここであり、1292年海路帰国の途についたのもここ泉州である。「ジパング」は、ビン(桑原:漢字に訂正→門+虫)南系のジップンに由来するものとおもわれ、ジップンからJapanさらにはNipponが誕生したとビン(桑原:漢字に訂正→門+虫)南人は信じている。JapanとNipponは、びん(←門+虫)南語起源の一卵性双生児ということになる。
東南アジアおよび世界の各地に居住する3000万の海外華人(Overseas Chinese)は、地縁、血縁、言語をもとにした互助機関である幇(パン)を組織するが、福建幇、潮州幇、広東幇、客家幇、海南幇の華僑五大幇は、中国23省のなかで、すべてこの福建省と広東省および広東省旧属の海南省を母体とする。台湾へは主として、福建省南半から移住したが、彼らは華僑とは呼ばない。華僑とは、中国、台湾、マカオを除く場所に居住する中国人のことである。中国、台湾国籍をもつものを華僑、現地国籍をもつものを華人と区別することがあるが、それらの総称として華僑とよぶことが多い。(桑原、1997、p.115)筆者は、1997年にインドを訪問したが、当地の新聞は印僑のことをNRI(Non-Resident Indian)と記していた。これに習うと、華僑はNRC(Non-Resident Chinese)、華人はRC(Resident Chinese)となる。
福建語を、フィリピン華人の8割、インドネシア、ミャンマー華人の5割、シンガポール華人の4割、マレーシア華人の3割、タイ、ベトナム、カンボジア華人の1割が話す。台湾人にとって、東南アジアは外国らしくない外国である。ここにも台湾経済の発展の秘密がある。東南アジアは、台湾人にとって同郷人がビジネスを営んでいるところなのである。
たとえば、筆者が1996年マレーシアのペナンを訪れた時、台湾人向けにコンドミニアムが盛んに売り出されていたが、台湾人にとって、ペナンは住民もほぼ福建人で、言葉、食事、気候、習慣も故国と同様なので、まことに適応しやすいはずである。同行の台湾人の小学生が屋台街を我が物顔で歩き、食べ物を注文し、金銭のやりとりをきびしくおこなっていたのが印象的であった。筆者はまた1999年ボルネオのサバ州コタキナバルを訪れたが、町中中国文字があふれ、特に1999年9月9日は吉日のため、華人系の結婚式でホテルは満杯で、ここでも台湾人の老若男女が自国にいるようにくつろいでふるまっていた。
ところで、台湾語とは、一般には、台湾語化された福建語、ビン(桑原:漢字に訂正→門+虫)南語をいう。客家人や原住民は台湾語が話せる。台湾においては、台湾語が話せないと、心からうち解けた会話ができず、商談にもさしつかえる。ために、外省人の第2、第3世代においては、台湾語を得意とする者が少なくない。しかし、本省人でも台湾語は庶民のもので、下品という感覚があった。1993年、筆者は、いずれ台湾語復権の時代がくるからと、台湾人学生に台湾語についての修士論文を書くように勧めたが、説得に骨を折ったことを思い出す。

6 漢字が漢文化圏のきずな


ここで、中国政府が台湾は中国のものだと主張する一因には、漢字が深くかかわっていることに言及しておく。中国語には、北京語、上海語、広東語、福建語、客家語などがふくまれるが、これらの言語間の意志疎通はなされず、したがって広い意味での中国語とは、英語、ドイツ語、フランス語をヨーロッパ語、あるいは西欧語という名称のもとで、一括称呼するようなもので誤解を招きやすい。これら諸言語を、言語学的には別言語とする学者もいるほどである。

北京語と上海語とでは話が全く通じない。このことを中国語では、「鶏と鴨がはなす」という。北京語と上海語は、発音ばかりでなく、声調(トーン)もちがうのだから通じようがない。声調は北京語では4種だけだが、上海語では7つ、広東語にいたっては9種もある。
これらの言語間では、発音や声調ばかりでなく、使用語彙もことなる。象徴的な例をあげると、公園で実見したゴミ箱の名称だが、北京では「果皮箱」、杭州では「果売箱」(「売」は「穀」の簡体字)、上海では「廃物箱」とそれぞれことなっていた。
われわれの第2番目の潜在地・西湖で有名な杭州での案内人は上海人だったが、杭州から上海まで汽車でわずか4時間なのに、彼はこの土地のことばは全くわからないといって、標準語(北京語を改良したもの)を話せる人としか話さなかった。
(桑原、1989、p.202、1980年記、)

これらいわば別言語とも言うべき中国語諸言語間のコミュニケーションの媒体になっているのが、漢字である。中国人を中国人たらしめているのは、人種や宗教ではなく、ことば、仕草、食事の仕方、倫理観など共通の習俗生活様式の総体であるが、この中心に位置するのが、実にこの漢字なのである。漢字は、ヨーロッパのラテン語と同じく、中国文化圏のリンガ・フランカであり、漢字文献が漢文化圏を結合するきずなの役割を担ってきているのである。
このように紀元前の秦の統一以来、漢文は中国の「共通語」の役割をはたしてきた。言葉が通じ合わない同士でも、筆談でコミューニケートできたのは、漢文のためである。そして漢文は変化を好まず、保守的であった。というのは、儒教史観の根本は、「万古不易」(=歴史の法則は変わらない)ということで、時代の変化を認めようとせず、隋の時代から秦末(1905)まで1300年続いた科挙の試験においても、古典にのっとった漢文の作成能力をためし続けたからであった。
あらゆる思想、哲学にも増して、漢字・漢文こそが中国統一の基本要素であった。漢文がなければ、中国は、今のヨーロッパのように多くの中小規模の国々にわかれていたといわれる。いま、たとえば広東語をベトナム語のようにローマ字であらわしたならば、広東圏は一挙に漢文化圏から離れてしまうだろう。


7 日本植民地下の台湾


1895年、台湾は清国から日本へ割譲され、50年にわたる日本の統治が開始された。清が日本に負けたとき、李鴻章が真っ先に日本に割譲したのが台湾だった。台湾は厄介な化外(けがい)の地であったからだ。日本は台湾を統治する30数年前に明治維新で近代化を経験したが、台湾に明治維新方式をもちこみ産業振興、水利、鉄道、郵便などのインフラ整備、教育の普及などの近代化をきわめて短期間に行った。このため、台湾の近代化は中国より数段に早く進んだ。早田、p.210)
とくに、教育には格段に力を注いだ。概して、教師は使命感が強く、人格的にも優れ、敬愛と信頼を一身に集めていた。「霧社事件」などはあったが、原住民に対する日本語教育の普及率は、諸族間で言葉が通じないことも相まって、漢族系台湾人よりも高く、日本語は原住民間の共通語になっていた。日本語が国際共通語であるのは、台湾山地民のみであろう。
イギリスは1786年からマラヤを植民地化したが、マラヤ大学を設立したのは160年もすぎた第二次大戦後の1948年のことであった。日本は、領有から早くも33年後の1928年に台北帝国大学を設立しており、これは阪大や名大よりも早かった。帝国大学は、東大、京大、東北大、九大、北大、京城大学、台北大学の順で設けられた。李登輝が「植民地時代に日本が残したものはおおきい。批判する一方で、もっと科学的な観点から評価しなければ、歴史を理解することはできないと思うな。」」(司馬、p.390)と日本時代の台湾を再評価の必要を述べているのも、このことを指している。
台湾人が見た日本の台湾統治の特徴は次の3点である。
第1に、日本は法律を尊重し、法律に従って統治をおこなった。
第2に、日本は住民の教育に熱心であった。ために、台湾人は日本語を通して、世界の近代文明を吸収することができた。
第3に、日本は、台湾への資本投下と技術移転に積極的であった。
(岡田、p.117)

上述のこがもあって、李登輝をはじめとして、台湾人には親日的な人が多い。
ただ、ここで留意すべきは、その親日も「比較親日」であることも多いいうことである。台湾人は、独立国をつくったことがなく、オランダ、清朝、日本、国民党に統治されたが、これらのなかで日本の統治が格段によかったので、それが親日感情につながっている。特に賄賂や踏み倒し常習の外省人役人、軍人は、賄賂を取らなかった日本時代の警察官、公務員と比較された。2.28事件の発端もこのようなところにあった。このように、台湾人の親日は、反国民党の裏返しとしての親日であることも多いことが特徴である。また、日本語をしゃべる台湾人は、日本のことを日本人には、礼儀上、よくいうものであることも認識しておいた方がよい。
岡田は台湾文化は、基本的に日本文化だという。台湾は、1895年から50年間日本の統治下にあった。それ以前に台湾国はなかった。清朝の領土であったときも、実質的な統治はなく、台湾独自の文化はなかった。「台湾人が台湾人としての性格をもつようになったのは、日本時代なので、それは明らかに日本人としての性格なのです。台湾文化というのは、基本的に日本文化なのです。」(岡田、p.48)
50年間の日本時代に、法治社会のなかで近代的経験を積み、社会、家族への良識をはぐくんでいった。これが戦後万人身勝手の大陸からやってきた人々との大きな違いとなった。日本のあと、国民党が50年支配し、中国の文化を押しつけた。その意味で、台湾人は、まず日本人でもあり、そのあとで中国人でもあるようになった。

8 李登輝の読書歴


さて、李登輝は、1923年台北の郊外で生まれた。父は警察学校を卒業し、警察に勤め、のち県会議員となった。当時は警察学校出の警察官はエリート層に属した。母は、村長の娘であった。李登輝は中学生の時すでに鈴木大拙を読み、『臨済録』をひもとき人生の指針としていた。さらに『漱石全集』、阿部次郎の『三太郎の日記』、倉田百三『出家とその弟子』、『古事記』、『玉勝間』、『源氏物語』『枕草子』『平家物語』の愛読者でもあった。
1940年李登輝は台北高校に入学した。1学級40名の中に台湾人は、4~5人のみであった。英語、ドイツ語、バイオリン、剣道をよくした。のちに博学、多趣味の総統といわれるのも、全教科型の勉強を続けたことによることが大きい。特に剣道で、「忍耐、正確、迅速」を体得したことがその後の人生に大きな影響を与えたといわれている。この当時の愛読書は、西田幾太郎『善の研究』、和辻哲郎『風土』、中野好夫『アラビアのロレンス』、アインシュタイン『物理学はいかにして生まれたか』、『ファウスト』、『若きウェルテルの悩み』などで、岩波文庫だけで700冊以上も所有していた。(李登輝、1999、pp.23)もちろん中国の文学と思想に関する書も読破していた。
1942年8月台北高校を繰り上げ卒業し、同年10月京都大学農学部農業経済学科に入学した。農業経済をめざすようになったのは、農村の小地主のせがれに生まれ、早くから農業問題の矛盾に疑問を抱いていたからであり、また高校時代の若い日本人の先生の影響だという。卒業論文は、『台湾の農業労働問題の研究』であった。京大時代は社会主義関係の書物を読みふけった。『資本論』も繰り返し読んだ。ただ、ヨーロッパのマルクス主義者のアジア停滞史観には疑問を感じた。
その後も日本語の書物には目を通しており、中村雄二郎の著作はほとんど読了し、後年『哲学の現在』は中国語にみずから翻訳した。西田幾太郎も座右に置いているという。(『朝日新聞』990217)「私は、いまだに一生懸命に勉強を続けているが、先に述べたように一番多く読むのが日本の書籍なのである。それはなぜかといえば、日本には非常な深みがあり、それが本の中に集約されているからだ。アメリカの本をもっと読んでいいと思うのだが、私はどうしても日本の本を読書の中心に据えている」(李登輝、1999、p.150)
京大には1年2ヶ月の在籍で学徒出陣で駆り出された。1944年、陸軍に入隊後、台湾で訓練を受けるために台湾行きの船に乗船するはずのところを仲間と共に見逃してしまったが、その船は米軍に撃沈された。李登輝の強運伝説が誕生するいわれとなった事件である。陸軍予備役士官教育を受けるため台湾から千葉県に送られるが、実戦を体験することなく、陸軍少尉として敗戦を迎える。
このとき、22歳の李登輝は、他の台湾人と同様日本人から中華民国人となった。1946年、台湾に戻り、台湾大学農学部農業経済学科3年に編入した。当時の台湾は、日本の法治時代から国民党の無法時代に移ったばかりであった。国民党軍は政権をとったばかりで、兵士や官吏の無法貪欲が横溢し、社会は混乱、治安は悪化の一途をたどっていた。この年1946年に、母と祖父を亡くした。

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