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杉原千畝。リトアニアでユダヤ人6千人を救った外交官。Sugihara Chiune 。7月31日没

杉原千畝。リトアニアでユダヤ人6千人を救った外交官。Sugihara Chiune 。7月31日没。 

・1900年(明治33年)1月1日。岐阜県美濃市 ー
1986年(昭和61年)7月31日没。満86歳没

リトアニア

リトアニア

リトアニアの左にもロシアが

リトアニアの北はラトビアです。
東はベラルーシです。
南は、ポーランドとロシア飛地カリーニングラードと国境を接しています。

カリーニングラードは、ロシアの飛地領で人口100万人。

ドイツ系住民は脱出してしまいました。
哲学者カントが生まれ、学び、教えたところです。


杉原千畝(すぎはら ちうね)は、日本のシンドラーとよばれています。

独ソ不可侵条約(1939年)によってリトアニアは、ドイツのヒトラーからスターリンへプレゼントされました。

このころユダヤ人の大量虐殺が始まっており、リトアニア在住のユダヤ人は、国外への脱出を切望していました。

たいがいの外国領事館は、リトアニアから撤退していました。
日本の領事館は業務を続けていました。

しかし当時の日本は、ドイツと
三国同盟を結んでおり、ユダヤ人へのビザの発給をしてはなリませんでした。

※三国同盟
1940年、日本、ドイツ、イタリアの「遅れてきた三者」が結んだ同盟。


杉原千畝領事は、本国の訓令に反して、人道的立場からビザを発給し、6千人ものユダヤ人を救いました。


1991年ソ連が解体し、リトアニアが独立すると、
杉原千畝の快挙を記念したスギハラ通りができ、
イスラエル政府は、杉原氏を顕彰しました。

ビザによって生き延びた難民たちの子孫は、
今日25万人にもおよびます。


こうしてナチスヒトラーに抵抗した杉原千畝の名誉回復が、
日本では46年後の1991年になってやっとおこなわれました。



杉原千畝(すぎはら ちうね)は、英語、フランス語、ドイツ語、ロシア語などに通暁していました。

特にロシア語には精通し、ニコライ学院でロシア語を教えていました。

リトアニア 外務省

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【救われた人びと】

・ニシェリ(B. Gehashra Nishri)は、イスラエルの宗教大臣になりました。

・レオ・メラッドは、少年の頃家族とともに日本を経て、アメリカにわたりました。
シカゴの商品取引所を世界有数の証券取引所に育て上げました。


杉原千畝記念館  岐阜県加茂郡


屋根の上のバイオリン弾き
    ロシアにおけるユダヤ人迫害の物語


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※【地図】バルト3国の リトアニア

バルト3国は、「エラリー・クイーン」で

エラリー・クイーンは、アメリカのユダヤ系推理作家です。『Yの悲劇で』知られています。
わたし(桑原政則)は
エラリから、「エストニア、ラトビア、リスアニア」を連想しました。



ルブリン トライアングル    Lublin Triangle

 Lublin Triangle

  ポーランド、リトアニア、ウクライナ3国の地域同盟。
歴史、文化、政治遺産を共有する3国が 、EU(欧州連合)、NATOへの加盟を目指す。
ウクライナ支援と対露制裁強化を協議。
Lublinはポーランド南東部にある。