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米国のハワイ侵略史

米国のハワイ侵略史

1898年、米西戦争に米国は勝利します。

1898年(明治31年)から米国は植民地主義に乗り出し、太平洋・アジアに進出します。

1898年(明治31年)、ハワイを併合します。
1898年(明治31年)、スペインからフィリピン、プエルトリコなどを獲得します。

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時代を少し前に戻します。

カメハメハ大王の像

1795年、カメハメハ大王は、ハワイ全島を統一します。
キャプテン・クックのハワイ訪問(1788年)に脅威を感じてのことでした。

1844年、ハワイは米国から独立国であることを認められます。

カラカウア王の肖像 前列左から東伏見宮、カラカウア王 

1881年、ハワイ王国の第7代国王・カラカウア王は、米国の野心に不安を感じ、日本を訪れ、ハワイ王室と日本の皇室との姻戚関係を希望します。
不調に終わります。


最後のハワイ王・リリウオカラニ女王。アロハオエを作詞、作曲

1893年、リリウオカラニ(Lili`uokalani)女王は、米国のハワイ公使により退位させられてしまいます。
「アロハオエ」は、リリウオカラニ作詞、作曲によるものです。
哀愁に満ちているのは、幽閉され、一国を失うときの歌であるからです。

1898年、ハワイは米国に併合されてしまいます。

「アメリカは真珠湾攻撃を非難します。
しかし、真珠湾の50年前に、クーデタで、宣戦布告なしに、ハワイ王国をほろぼしたのはアメリカです」(ハワイ人)


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日本は、米国のハワイ併合、フィリピン領有を、奇貨として、まねることにします。

「桂・タフト協定」を結びます。
桂太郎は、時の総理大臣です。
タフトはのちに第27代アメリカ大統領になります。

「桂・タフト協定」は、戦争も選挙もせずに領地を拡大しましょうという内容です。
時代認識のない植民帝国同士の野合でした。
  • 日本は、アメリカのハワイ併合、フィリピン領有をOKとする。
  • 米国は、日本の朝鮮併合をOKとする
  • 極東の平和は、日米英3国によって守られるべきである。

こうしてやすやすと、ハワイ、フィリピン、朝鮮は、列強のエジキになりました。
時は、帝国主義、弱肉強食の時代、「桂・タフト協定」に国際的に反論はありませんでした。(※1 )

日本の皇室との姻戚を望んだカラカウア王
Aloha `Oe 滅びゆく母国ハワイへの鎮魂歌。リリウオカラニ作詞、作曲

<※ 1872年、琉球王国は琉球藩に格下げにされます。
ハワイ、沖縄は似たような運命をたどります。 >


(※1 )
米国は植民地が今後も続くと思い、列強模倣を始めました。
日本も「一等国」を目指しました。

このころすでに、民族自決、国民国家の底流は流れていました。

「国家百年の計」といいます。
日本は中国、インドと組んで、植民地のないアジアを作るほうに注力すべきでした。

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