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川越は江戸の母

「東京都赤坂にある日枝神社の本社です」:
川越の日枝神社の説明板

川越は江戸の母とよばれます。

1153年秩父出身の秩父氏の次男が河越館を建て、河越氏をおこします。
三男は江戸に進出し江戸館を建て、江戸氏となり江戸を支配します。

秩父→ 川越→ 江戸 の関係です。

 「越」は江戸時代より「越」となります。

1457年、太田道真、道灌は、河越城を築きました。
同年に江戸城を築きました。

そのとき、太田道灌は、川越の日枝神社を江戸城内に勧請しました。
勧請(かんじょう)とは、分霊、のことで、平たくいえば、のれん分けのことです。
ローソクの火を分け与えるようなものです。

いまの赤坂の山王日枝神社がそれです。
赤坂の山王日枝神社


100年以上ののち、天海は、
日枝神社を江戸城内から赤坂の位置に移しました。

◇                    ◇                    ◇

幕府が開かれたころの江戸は、
湿地帯で人が住めるような所ではありませんでした。

江戸城はほぼ海に面していたような状態でした。
台地はといえば、水の便が悪く、農業もできませんでした。
川越よりはるかにちっぽけな村にすぎず、人家も100戸ほどでした。
家康は居城を小田原か鎌倉に定めると思われていました。


台地では、農業ができず、馬や牛しか飼えなかったことは、地名に残っています。

    牛込、駒込、練馬、馬込、駒沢、上馬、下馬

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1625年、江戸をまもる上野の寛永寺を、喜多院・天海が開山し、住職となりました。


比叡山延暦寺は「延暦時代」に建てられました。
それに対抗して、「寛永時代」に建てたので寛永寺にしました。


幕府、天海は、関東天台宗総本山である喜多院の東叡山(とうえいざん)という山号を上野の寛永寺に移します。
東叡山とは東の比叡山という意味です。
これにより寛永寺は、関東の天台宗の総本山となり、やがて比叡山より強力になります。

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川越、喜多院の天海が江戸の町を設計しました。

江戸の町はうずまき型
5寺社が江戸城を守る

天海は、五色不動にも関係しています。

七福神を江戸に広めることを徳川家康に進言しました。

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上野・寛永寺の本堂は、川越・喜多院から移築されたものです。

寛永寺のページ

◇                    ◇                    ◇

歴史的には、「川越は江戸の母」です。

【追記】

「小江戸川越」の「小」は「子」ではありません。
江戸の子供ではなく、「コンパクトな江戸」が小江戸川越です。



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