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小山修三:サンフランシスコの日本人町(NK2012/9/7)


サンフランシスコの日本人町 考古学者 小山修三 

 日曜日の日本町は人でにぎわっていた。スシや自動車が象徴する憧れの日本文化にふれることのできる場として、主要観光地の一つになっているのである。
 日本町は20世紀初頭に形成され、その後も日本から移民を受け入れながら成長していった。しかし、太平洋戦争が始まると政府によって強制隔離が行われ壊滅的な被害を被(こうむ)る。それでも戦後は苦難をのりこえ復興への道を歩んだ。そして、1960年代末に、商社や商工会、領事館も協力し、日本文化と商品の紹介・普及をめざすショーケースの役割をはたす立派な建物ができた。サンフランシスコは市場開拓の拠点の一つであり、占領軍や帰米二世など日本を再確認した人たちの思いもからみ熱気があった。成長期の日本経済の後押しがそんな狙いを見事にかなえたと言える。
 ところが、当初は高級すぎて空回りの感じがした。貧乏学生の私が行った70年代初めの周辺はまださびれた感じが残っていた。小さな日本食品店でふと手に取ったどんぶり鉢の底にメイド・イン・オキュパイド・ジャパンとあり、ぎくりとした覚えがある。しかし、今では整備が進んで、まわりには瀟洒(しょうしゃ)な家屋がたちならび、仏教会やキリスト教会、日系人中心の老人ホームもある閑静な居住区になっている。
 気になるのはこの町の将来だ。文化は現地から時間的・距離的に離れるにつれて変質する。今、日系社会は3世4世の時代となり、中国、韓国系との関わりが深まっていると言う。民族間の軋轢(あつれき)はそう簡単に片づくものではない。しかし、アメリカ社会は黒人大統領を生み、解決への大きな一歩を踏み出している。ここにはどんな形の社会が現れるのだろうか。
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