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邪馬台国は、魏の国際戦略に組み入れられていた。


三国時代の魏(220 - 265)は、呉と蜀を牽制する必要がありました。
中国お得意の遠交近攻の策をとります。

・魏は、邪馬台国と手を結び、呉をハサミ打ちにしようとします。
・魏は、クシャーナ朝(大月氏、イラン系)と組み、蜀をハサミ打ちにしようとします。

魏が王号の金印を紫綬したのは、
    邪馬台国とクシャーナ朝
のみです。
金の印鑑は、破格の扱いを示します。

魏の使いは、3世紀の半ばに、4回も邪馬台国を訪れています。
『三国志』に2000字もあてて、「魏志倭人伝」という章を立て、邪馬台国を紹介しています。
日本をしっかり利用するためです。

海の苦手な魏は、海の呉を攻めるのに、どうしても海に囲まれた邪馬台国が必要でした。
後に、魏は「赤壁の戦い」で呉に敗れます。

邪馬台国(やまたいこく)は、日本が始まったころ、すでに国際潮流の中に投げ込まれていました。

しかし、多民族による支配、蹂躙がないので、平和で自己完結的な社会をいとなんでいました。

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魏は、邪馬台国は呉の向かい側にあると誤解していました。
台湾も邪馬台国に入っていたのでしょうか。
「魏志倭人伝」の謎の「水行十日」を解くカギもここにありそうです。

 <*  海の苦手な中国が台湾を発見したのは、江戸時代に入ってからです。>

実際に邪馬台国が、呉の対岸にあり、呉と戦っていたら、邪馬台国は滅んでいたかもしれません。
「邪馬台国問題」は、「日本の存亡問題」です。
一部の日本史好事家のホビーの問題ではありません。

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日本では対決は、1対1を考えてしまいます。

中国では古来より三スクミは常道です。
外交といえば、多国間外交を指します。

遠交近攻も手なれたものです。
中国の遠交近攻策、「米国と交わり(遠交)、日本を攻める政策(近攻)」は、今に始まったことではありません。

 <*  中国人は、日本の文化歴史を尊重したり、関心をもつことはありません。
中国人の書いた『日本論』はまずありません。>

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「長多根(長期的、多角的、根本的)」「多」からみると、
邪馬台国はすでに魏の国際戦略に組み入れられていました。

従来の邪馬台国ファンは、アジア大陸の戦争要因を視野に入れていませんでした。
古代史のロマンが最大の関心事でした。

実際は、国家存亡の危機でした。

日本史は、常に外から見ることも必要です。
ムカーシも今もそうです。

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邪馬台国(学研)
魏志倭人伝: 全文   魏志倭人伝: 原文口語訳対比   魏志倭人伝(安本美典)

※ 地図: FLand-Ale日本世界地図(フリーソフト)

【cf.】
渡邊義浩『魏志倭人伝の謎を解く - 三国志から見る邪馬台国』 。他。

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【追】

・全世界の中華系人口は、6000万です。
世界のあらゆる国に影響力を行使します。

・アフリカ、南太平洋などの国々にテレビ局をつくり、影響を高めています。
アフリカ人は、日中の領土問題は中国に理があると、マインドコントロールされています。

・中国は、外交、広報が得意です。
有史以来異民族に支配され、ケンカばかりしているからです。





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【cf.】『常識逆転!の日本史』    NHK BS歴史館