ページ

佐久間象山。開国論をとなえる。勝海舟、吉田松陰の師。Sakuma Shōzan。8月12日没

佐久間象山。開国論をとなえる。勝海舟、吉田松陰の師。Sakuma Shōzan。8月12日没

佐久間象山

・1811年3月22日。長野市松代(まつしろ)~1864年8月12日暗殺。53歳、京都

佐久間象山(しょうざん)は、
長野市の松代藩の下級武士の家に生まれます。

城主に見初められ修養します。
 1842年、幕府の老中となった藩主・真田幸貫(ゆきつら)に
「海防八策」を上書します。

【※】真田幸貫(ゆきつら)
8代 徳川吉宗の曾孫で、江戸後期の名君です。


佐久間象山は、対外的危機を克服するためは、
西洋の科学技術を摂取し、
国力を充実
することが必要だと説きました。

    ・大砲をつくりました。
    ・電気治療器を考案しました。
    ・写真機をつくりました。
    ・電信機をつくりました。
    ・オランダ医術を習得しました。



1851年江戸で塾を開き、
    勝海舟、
    坂本龍馬、
    吉田松陰、
    小林虎三郎(
「米百俵」の精神 - 長岡市)、
らを教えました。 

1852年、42歳で勝海舟の妹をめとりました。

1853年のペリーの来航を機に
積極的に開国論をとなえ

時代に大きな影響をあたえました。


【※】
ペリーと佐久間象山

ペリーは、横浜で松代藩の陣屋を通りかかった時、
佐久間象山を見て思わず会釈してしまいます。
風采が堂々として、異相だったからです。

後の徳川慶喜(よしのぶ)らに西洋事情を説くなど、
要人に啓蒙活動を続けました。 

しかし、1854年には、吉田松陰に暗に密航を進めたとして、
松代に蟄居(ちっきょ)を命ぜられました。


1864年、佐久間象山は、従者4人を連れ、
京を馬で進んでいました。
ふところには開国の草案を忍ばせていました。

木屋町(きやちょう)通りで、
2人の攘夷派におそわれ斬殺(ざんさつ)されました。


象山は天才意識が強く、大変な自信家でした。

技術があり、語学をあやつり、内外に大きく吠えます。

いまの日本に欲しい人物です。


松代 佐久間象山ゆかりのまち 【+1】


【名言】

「好奇心があるから学び、
チャレンジするから成果が生まれる。
失敗するから、成功がある