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近藤勇(いさみ)。日本を先取りした新選組の隊長。5月17日没。

近藤勇(いさみ)。日本を先取りした新選組の隊長。5月17日没。Kondō Isami 

近藤勇  【画像】  /国会図書館

・1834年10月9日-1868年5月17日。35歳

多摩地方は、徳川家の天領(将軍の直轄地)でした。

徳川家康は、江戸が万一攻められた場合、
直ちに脱出できるように多摩のある甲州街道を
江戸から直線的に建設しました。

甲州街道のルート地図

【※】甲州街道の終点は下諏訪 桑原政則

徳川家康は、
街道の町民には武道を許しました
近藤勇、土方歳三らの新撰組はこのようにしてうまれました。
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徳川家康は、精強な元の武田騎馬軍団や北条の浪人を
八王子 千人同心(はちおうじ せんにんどうしん)
に編成しなおし
有事に備えました。

八王子千人同心は、普段は農民ですが、ことあると
武士に変身する
郷士(ごうし。農民武士)
でした。


この多摩地区には武士集団はいませんでした。
しかし徳川幕府の直轄地である天領であったため、
八王子 千人同心徳川家に対する忠誠心が強く、
また武道をたしなむ尚武の風がある土地柄でした。


【※】八王子千人同心多摩をゆく  小平市こども郷土資料


八王子 千人同心は、
日光東照宮のきびしい警備にもあたりました。
八王子から日光への千人同心街道もつくりました。


1800年ロシアの接近にそなえ蝦夷地にも進出しました。
苫小牧の基礎は八王子千人同心が築きました。


多摩人には、将軍に直接仕えているという誇りがありました。

多摩はまた日本の主要輸出品の生糸の大産地であり、経済力もありました。

◇                    ◆                    ◇

近藤勇(いさみ)は、多摩の農家に生まれました。
16歳の時、剣術道場に入門、28歳で道場主になります。

土方歳三(ひじかた としぞう)、沖田総司も道場に集まりました。
稽古のあとには、政治論議に花を咲かせました。


近藤勇は、30歳の時、幕府の浪士組募集に仲間8人と応募します。
新選組の誕生です。
旅立ちにあたって、家族、道場の世話を地域の名主に託します。


近藤勇と多摩の強い絆はずっと続きます。
京都で自由に動けたのも多摩の同志、資金の支援のおかげです。


ところで、攘夷派は2派にわかれていました。
公武合体派(こうぶがったいは)は、
天皇と幕府を強化しようとするグループです。
孝明天皇、幕府(一橋、会津、桑名)、新選組です。
親・幕府+ 親・朝廷で、かつ攘夷という派です。

攘夷とは、「夷(外国人)」を攘(はら)うことです。


近藤勇たちの多摩は天領(将軍領)でしたので、
幕府を、朝廷とともに、奉じました。

ところが尊王攘夷派は、長州、土佐、過激派公家のグループです。
天皇中心、反・幕府で、攘夷という派です。

1864年に京都池田屋に志士らを襲撃し、
一躍天下に名を知られるようになります。

鳥羽・伏見の戦い 

1868年鳥羽・伏見の戦いが京都で起こります。
徳川幕府軍対薩摩・長州軍の戦いです。


新選組は幕府軍の一員として戦いますが、
徳川方は、惨敗します。
勝った薩摩・長州軍には錦の御旗が上がり、官軍となります。


新選組は賊軍となります。


 甲州勝沼の戦い:http://tvrocker.blog28.fc2.com/blog-entry-385.html

近藤勇たちはいったん江戸へ戻り、
薩長新政府軍を迎え撃つために

甲州へ向かいます。

しかし、甲府城は薩長 新政府軍に抑えられていました。
近藤勇は東へ転戦しますが、千葉県流山(ながれやま)で
とられられます。
やがて処刑されます。


新選組は、地域、藩、身分を超えた草の根の仲間の集まりでした。
そこには日本人意識も芽生えていました。


江戸から明治にかけては、武士の力が弱まり、
庶民、農民が世の中を動かす力を持つようになりました。


あたらしい日本の姿を先取りしたのが新選組でした。
薩長の敵・近藤勇は不当に名前をおとしめられたままです。


のちに多摩で自由民権運動が盛んになりますが、
ルーツは新選組にあります。
多摩人の意識の高さはいまに至っています。



 【cf.】『常識逆転!の日本史』    NHK BS歴史館




近藤勇の墓  会津若松市東山







【名言】

笑ってならぬものは 人の失敗






















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風雲! 新選組  小平市



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