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源義経。世間無知が招いた悲劇で自滅。Minamoto no Yoshitsune。6月15日没

源義経。世間無知が招いた悲劇で自滅。Minamoto no Yoshitsune。6月15日没
源 義経 

・1159年。京都~1189年6月15日没。31歳。陸奥国

1159年頼朝、義経の父 源義朝は平清盛に敗死します。平治の乱です。

頼朝と義経は、平清盛の継母・池禅尼(いけのぜんに)に助けられます。


源義経は、京都の鞍馬寺で幼い日々を過ごすことになります。

16歳の時、鞍馬寺を出て、奥州平泉の藤原秀衡(ふじわらの  ひでひら)を頼り、たくましく成長します。


1180年、源頼朝が伊豆で、打倒平家を掲げ、挙兵します。
21歳になっていた義経は平泉から馳せ参じました。

ほぼ垂直の崖を降りるスペイン軍の馬(※)
一の谷→ 屋島→ 壇ノ浦(※)

1184年、源義経は、一ノ谷(いちのたに)の合戦
で、断崖絶壁からの奇襲作戦で、平家軍を敗走させます。
     <*  逆(さか)落しが可能なことは、上図を見てください。>


鵯越の逆落とし(ひよどりごえのさかおとし)で、義経は平家殲滅の立役者となります。
平氏を京都から追い払います。

義経は、屋島、壇ノ浦の合戦を経て、1年余りで平家を滅亡へと追いやります。

◇                    ◆                    ◇

しかし、義経の戦い方にはいろいろ問題点がありました。

1) 不意打ちの、鵯越の逆落とし(ひよどりごえのさかおとし)では、わずか70騎で戦っています。
中隊を組織するようなことはしませんでした。

寺育ちなので、武士の教育を受けていなかったからです。
不意打ちは当時、武士のとる道ではありませんでした。

2) 壇ノ浦の戦いでも、水手(かこ、船の操縦士)を討つという禁じ手を使っています。

3)義経は戦いのあと、京都で後白河法皇から、頼朝には無断で、検非違使の官位を受けます
   <*  検非違使(けびいし)は、警察庁の長官のようなものです。>

頼朝は、朝廷からの官職は頼朝の許可を得た場合に限ると伝えていました。

4)平氏一族の娘を妻にします。

5)後白河法皇は、頼朝に対抗して、義経を子分にし、京都国を建てようとします。

6) 頼朝は義経の無断任官に激怒します。


義経は、頼朝の誤解を解こうと鎌倉へおもむきます。
しかし、鎌倉の南西部の腰越で足止めされます。

腰越状(こしごえじょう)が今に残ります。
「私は兄上に代わり平氏を倒し、父上の恥辱を晴らしました。
…。ところが、…、兄上の怒りを買い、悲しみの涙を流しています。
…。兄上にお会いできず、兄上との関係はもう終わりなのでしょうか。
…。」
源頼朝と源義経は、当時の身分制度では、主君と家来の関係です。

しかし、義経にとっては頼朝は「お兄さん」でした。
父を知らない義経にとって、父代わりの兄、でした。

 組織力と団結力をほこる東国武士団にとって、義経の行動は理解できないものでした

逆に、義経は、懸命に武家社会の組織固めをおこなっている兄・頼朝を理解出来ませんでした。

政務、時代の流れにうとかった義経を見ていると、
大事をなすには、
まわりにブレーンがいることが必要なことを
痛感させられます。






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【源義経関連年表】

1159  源義経誕生
1180  源頼朝挙兵。義経21歳
1184  一ノ谷の合戦で平氏を破る
         後白河法皇より検非違使に任じられる
1185  屋島の戦い
         壇ノ浦の戦いで平氏滅亡
         鎌倉入りを許されず
1187  平泉の藤原秀衡の元に
1189  藤原秀衡に襲われ、義経自害













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源義経のページ

(※)
http://joyreactor.com/post/528037
http://miraikoro.3.pro.tok2.com/study/quiz/n02-3.htm

【cf.】
NHK2012/1/19他