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日本の宗教改革は鎌倉時代に、法然が


鎌倉時代に、仏教は、庶民のものへ
運慶作。剛健な金剛力士像  / wp
日本の国民史は、鎌倉時代からはじまります。

奈良、平安時代は、一種の奴隷制の時代で、
    国家は、公家、寺院のため
にありました。

庶民には、転職、移住の自由はなく、働く機械でした。

仏教は、
    国家仏教で、
    僧侶は官僧(=国家公務員)
でした。
僧侶の仕事は、庶民とは関係なく、国家の安泰を祈ることでした。

仏教は、
    「鎮護国家
    「朝家(ちょうけ)安泰
のためのものでした。

お経もお寺も極楽も、庶民とは無関係でした。

平安時代までは庶民の生活は、見えません。
武士や庶民を描いた小説はありません。

『源氏物語』は、宮廷の物語で、庶民が何をしているかはうかがえません。


◇                    ◆                    ◇

平安の中期頃に鉄器がもたらされ、農具の生産が高まりました。

かつては、山間や谷間のような水の流れる傾斜地でのみ行われていた水田工作が、
関東の平地、平らな場所でも、開墾すれば、可能になりました。

日本一広い関東平野を開墾し、開拓農民から開墾地主になるものがあらわれました。

武士の誕生です。


しかし、奴隷制の律令体制下では、耕しても自分の土地にはなりません。
しかたなく、自分の土地を中央の貴族、寺社に寄付し、管理権だけをもらっていました。

京で口利き役になってくれたのが、
    源(みなもと)
    平(たいら)でした。
源氏も平氏も、もとは天皇の血筋でした。



敵同士の源氏と平氏は、戦いました。

平清盛が源義朝を破り
平氏は一大勢力となります。

勝った平氏は、
のちに公家の仲間入りをしてしまいます。


伊豆で20年間の流人生活を送っていた源義朝の子・頼朝は、
大量の武士団を味方にし、土地を私有制にする
    土地革命
をめざしました。

つまり、不合理な京都の公家支配の律令国家から独立し、
土地は耕した者(農民≒武士)が所有することです。

それが、
    「鎌倉秩序」
です。
源頼朝、坂東武士団のめざしたことです。


したがって鎌倉幕府は、土地争いの調停所でもありました。

坂東とは箱根の、小田原の東の地域、関東のことです。

◇                    ◆                    ◇

いつか取りあげられてしまうかもしれない京の公家名義の土地が、
自分のものになって、
リアリズム(現実主義、写実主義)が生まれました。

生活が自分のものになりました。

運慶の彫刻にも写実主義が如実にあらわれています。

商工業も地方でも始まりました。

宗教も、平和時代の国家、公家のみを救う抽象的なものから、
庶民、衆生を相手にしたわかりやすいものになりました。

ヨーロッパの宗教改革は16世紀でしたが、
日本の宗教改革は、鎌倉時代(1185- 1333)、13世紀です

当時、貧しい民衆は、生活に追われ、お寺へも行けず、お経を読む時間も能力もありません。
破壊行為もしてしまいます。
唱えれば成仏。 法然

法然は、万人向けの浄土宗を開き、「誰でも南無阿弥陀仏をとなえれば、極楽往生できる」と教えました。

法然は、慈悲の仏・阿弥陀仏は、愚かで貧しい民衆も救う、と説きました。

はじめて女性に布教したのは、法然です。


法然の弟子が、親鸞です。
29歳の親鸞は69歳の親鸞に弟子入りし、念仏運動を推進します。

旧仏教からにらまれ、6年後、法然は四国の讃岐へ、親鸞は越後へと流罪になります。
都の裏鬼門と鬼門の方角です。

法然が「唱えれば成仏(じょうぶつ)」と説いたのに対し、
親鸞は「信じれば成仏」とさらに進め、仏教を人々にさらに開放しました。

人間は無力不完全で、仏の加護によって生かされているのだ、
他力の仏教を説いたのが、
法然、親鸞です。


鎌倉時代の新仏教をまとめてみます。
    法然の浄土宗、
    親鸞の浄土真宗、
    一遍の時宗、
    日蓮の日蓮宗、
が、そうです。

他にも
    栄西(ようさい)の臨済宗、
    道元の曹洞宗、
といった自力本願の禅宗も武士の間で盛んになりました。

【※】
法然は、2011年に8回目の大師号を朝廷から受けました。
法爾(ほうに)大師 です。
 http://jodo.or.jp/jodoshu/index5.html

法然コラム (1133-1212、80歳)
親鸞のページ (1173-1262,89歳)