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荻野吟子。女医第1号。埼玉県出身。Ogino Ginko 6月23日没

荻野吟子(ぎんこ)。女医第1号。埼玉県出身。Ogino Ginko. 6月23日没
荻野吟子 /  熊谷市
女医が認められていなかった頃なので、男性と同じ髪型


・1851年3月3日。熊谷(くまがや)市1913年6月23日没

荻野吟子 没後100年。 2013年。

荻野吟子 図書。。

 荻野吟子(おぎのぎんこ、1851- 1913、62歳)は、現在の熊谷市に生まれました。
【※】熊谷市は、熊谷次郎直実(くまがい じろう なおざね)で有名です。

「荻野家に天才少女あり」といわれたほどの才媛でした。

夫からうつされた難病を男性医師に治療されたことから、
女性医師の必要性を痛感し、
医師になることを決意します。

2年で離婚します。

当時は女性は医師になれませんでした。

漢方医学の塾で学びました。
現・お茶の水女子大学を主席で卒業します。
さらに医学校で学びました。

しかし、女性のために、女性医師の願書は受け付けてもらえませんでした。海外へ行くしかない所まで追い詰められます。

1885年、規則が改正され、東京の湯島に産婦人科医院を開業することができました。

34歳にして、近代日本初の公許女医となります。
吟子のことは新聞や雑誌で「女医第一号」として大きく扱われます。


埼玉3偉人の一人です。
塙保己一(はなわ ほきいち)、
渋沢栄一

が先人です。

女性の地位向上にも努めました。



【名言】

「人と同じような生活や心を求めて、
 人々と違うことを成し遂げられるわけはない。
これでいいのだ。」

女性への偏見や蔑視から
女医への道は遠く、私立医学校に
男装で授業を受けました。

医師への国家試験すらも認められませんでした。
直訴して、33歳にして受験が許され合格しました。



熊谷市立荻野吟子記念館
荻野吟子 動画も。 熊谷デジタルミュージアム

荻野吟子の生涯 【9+】




【追記 
地元では愛されている荻野吟子(M淳子)】

「地元では小学生の授業にも頻繁に登場し、給食には
吟子汁というメニューもあって、いつも身近に「荻野吟子」ですね。
熊谷市出身の芥川賞作家、青山七重さんの小説にも
同姓同名の女性が登場するほど地元では愛されています」