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徳川慶喜を守る彰義隊は床几(しょうぎ)から


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徳川慶喜 :大正まで生きる   ※国会図書館
鳥羽・伏見の戦い(1868年1月)で徳川軍は敗れました。

15代将軍・徳川慶喜(よしのぶ、1837- 1913)は大阪から軍艦に乗って、江戸にもどります。
勝海舟に「あとは頼む」と言ったきり、上野の寛永寺で謹慎しました。

彰義隊が寛永寺を守ることになりました。

床几(しょうぎ)
彰義隊とは、「床几(しょうぎ、腰掛け)」に由来します。
将軍家をささえる組織という意味です。

黒門戦闘図
※幕末 刀痕 弾痕 探訪記

1868年の上野戦争で、彰義隊は寛永寺に立てこもり、最後の反抗を試みました。

彰義隊は、「天海万歳!」とさけびながら、薩長に襲いかかっていきました。
寛永寺・天海の軍隊は、最後まで徳川を守ろうとしました。

しかし1日で壊滅しました。
薩長側は徳川家の守り本尊である寛永寺を焼き尽くしました。

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