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第14回 北条時宗~元との戦い~

第14回 北条時宗~元との戦い~

外国の皇帝から届いた手紙

18歳で「執権(しっけん)」として鎌倉幕府を率いていた北条時宗
しかし、海の向こうの国の皇帝からの手紙がとどきました。
「今後はたがいにつかいを送って親交を結ぼうではないか」。
ここまではよいとして、問題はここからです。
「もし私の気持ちを理解しなければ、武力を使うことになるかもしれない」。
この手紙、言うことを聞かないと武力を使う、とおどしているのです。
この手紙に対して時宗はどうしたのか。
使者を送って親交を結んだのか、それとも…。


手紙の主はフビライ・ハン

今から750年ほど前、鎌倉幕府を率いていたのが北条時宗です。
1268年、外国から手紙が届けられます。
「従わないと武力を使う」とおどしていました。
手紙の主は、フビライ・ハン
フビライはそのころ、中国を征服して、巨大な帝国「元(げん)」を打ち立てます。
その後、何度も手紙が届きますが、時宗はフビライと戦うことを決めました。


元が九州にせめてきた

1274年、九州の博多の沖にとうとう元の大艦隊が姿を現します。
むかえうつのは日本の武士。
当時の武士の戦い方は、まず名乗りを上げ、1対1で行うものでした。
「やあやあ、我こそは肥後の国の住人…」。
「やあやあ我こそは…」。
それに比べて元の兵士は、名乗るどころか大勢でいっせいにおそいかかってきました。
戦い方のちがいに武士たちは苦戦します。


元の集団戦法と爆弾が武士を苦しめた

元との戦いをえがいた絵巻『蒙古襲来絵詞(えことば)』。
そこには、当時の武士が見たこともない武器がえがかれています。
爆発する武器です。
その中には、火薬と鉄のかけらが入っていました。
経験したことのない武器に武士たちは手も足も出ません。
元の集団戦法と爆弾が、日本の武士を苦しめました。


次の戦いへの備えを

そんな苦しい戦いの夜のこと。
嵐が来て海上は大あれとなります。
翌朝、元の船は、嵐をさけて帰ってしまったのか、見当たりませんでした。
しかし時宗は、元の軍が再びおそってくると考え、次の戦いに備えます。
敵の上陸を防ぐため、石のかべ、「石塁(せきるい)」を築きました。
高さは2m以上、全長は、海岸に沿って20kmにもなりました。


武士の活躍と嵐が元の軍隊を退けた

1281年、一回目の攻撃から7年後、元が再びせめてきました。
前回を上回る大軍です。
武士たちは、海にこぎ出し勇敢に戦いました。
せめこまれても石塁が威力を発揮し、元の兵士の行く手をはばみます。
しかし元の兵士も、あの爆弾を使い、はげしくせめ立てます。
そんなとき、また嵐が来たのです。
船ははげしい風と波にのまれ、ほとんどがしずんでしまいました。
武士の活躍と嵐が、元の軍隊を退けたのです。


ほうびにあたえる土地が不足

戦いのあと、時宗は頭をなやませます。
戦に勝っても元から土地をうばえなかったため、武士にあたえる領地が不足していたのです。
鎌倉幕府と武士は、幕府のために命がけで戦う「奉公」と、ほうびに土地をもらえる「ご恩」という強いきずなで結ばれていました。
しかし、命がけで元と戦ったものの、ご恩の土地は武士たちになかなかあたえられません。


土地がもらえず武士の不満が高まった

しびれを切らしてうったえたのが、竹崎季長(たけざき・すえなが)。
いちばんに元に戦いをいどんだつわものです。
先頭に立って戦ったのだから領地がほしいとうったえたところ、その功績がみとめられ、土地があたえられました。
ほかの武士も季長のように幕府にうったえます。
しかし、ほとんどの者は土地をもらえなかったのです。
土地をあたえられなかった武士と幕府とのあいだには、深いみぞが生まれました。
元との戦いでほうびの土地がもらえず、武士の不満が高まっていきました。


750年前の戦の証

1284年、時宗は34歳の若さでなくなります。
その後、鎌倉幕府の力はおとろえていきました。
2011年、長崎県鷹島(たかしま)沖の水中から、元の船が発見されました。
およそ750年前、時宗と武士たちが戦った証が、今も海の底にしずんでいます。

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