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第22回 徳川家光~江戸幕府と大名~

第22回 徳川家光~江戸幕府と大名~

■ 江戸幕府をもっと強くしたい!

全国の大名たちが幕府に刃(は)向かっていないかチェックを続ける徳川家光。
そんな家光の秘密兵器が「武家諸法度(ぶけしょはっと)」です。
武家諸法度は、大名がしてはいけないこと、しなければならないことを書いた法律のようなものです。

大名は1年おきに江戸に来て将軍のために働かなければいけない。
新しい城を築いてはいけない。
勝手に結婚(けっこん)してはいけない…。
なぜそこまで細かく定めるかというと、祖父である初代将軍の家康がつくった江戸幕府を、もっともっと強くしていくためでした。



■ 少年時代のピンチを救ったのは…

徳川家光は、江戸幕府の力を固めた三代将軍です。
幼いころの名は、竹千代。
そのころ両親は、竹千代よりも弟の国松に愛情を注いでいました。
「国松を世つぎに」、そんな空気が流れ始めたといいます。
竹千代のピンチを救ったのが、江戸幕府を開いた祖父・徳川家康です。
孫たちに会いに来たときのこと。
家康は、「竹千代どの、こちらへ来なさい」と竹千代をていねいな言葉でよび寄せます。
しかし国松には、「おまえはそこにいろ」と一喝(いっかつ)。
みんなの前で竹千代を優先的にあつかうことで、将軍の座を約束したのです。



■ 「私は生まれながらの将軍である」

こうして家光は、20歳で三代将軍に就任。
祖父・家康が開いた幕府の力をさらに高めようと、大名たちにこう宣言します。
「私は生まれながらの将軍である。祖父や父の仲間だった大名もすべて家来としてあつかう」。
全国の大名をおさえる手段の一つが、武家諸法度。
父・秀忠の代につくられた、大名などを取りしまる法律です。
そこに家光は新たな項目(こうもく)を加えました。
参勤交代(さんきんこうたい)」です。
大名が1年おきに自分の領地と江戸を行き来し、将軍のために働くというもの。
領地に帰るときは、妻や子を人質として江戸に残す決まりでした。



■ ★参勤交代などで大名をおさえつけた

加賀金沢藩(はん)の参勤交代の様子をえがいた絵があります。
およそ2000人もの大行列
金沢から江戸まではおよそ480km、2週間の旅でした。
武器や衣装、食事代など、行列にはばくだいなお金がかかりました。
この藩では、宿泊(しゅくはく)費だけでも現在の2億円を使ったといいます。
すべては大名たちの自己負担
大名はお金を使い、謀反(むほん)どころではありません。
それこそが家光のねらいだったのです。
参勤交代などのしくみで大名をおさえつけた家光は、全国の支配を固めていきました。



■ 大きなピンチ「島原の乱」

大名をおさえることに成功した家光に、大きなピンチが訪れます。
1637年の「島原の乱」です。
当時、キリスト教の弾圧(だんあつ)と重い税の取り立てに苦しんでいた農民たちが、天草四郎時貞(あまくさしろうときさだ)をリーダーに、反乱を起こしたのです。
幕府は12万もの兵をつぎこみ、ようやく鎮圧(ちんあつ)しました。



■ ★キリスト教の禁止、貿易の独占

農民の団結力を思い知り、おそれた家光は、キリスト教の取りしまりをさらに厳しくします。
そして、キリスト教を広めるおそれの少ないオランダと中国だけを相手に長崎の出島で貿易をし、その利益は幕府が独占(どくせん)しました。
キリスト教の禁止。
貿易の独占。
海外との交流の禁止
国をとざしたこのような一連の政策を「鎖国(さこく)」といいます。
鎖国により、幕府の支配力と財力は安定していきました。



■ 祖父・家康が心の支え

栃木県の日光東照宮(にっこうとうしょうぐう)には、家光の祖父・家康がまつられています。
当初は質素な建物でしたが、家光がきらびやかにつくり変えました。
幼いころ家光を将軍に推してくれた祖父への感謝の思いが表れています。
家光がなやんでいるとき、家康がたびたび夢に現れ、見守ってくれたといいます。
家光はその様子を絵に残し、心の支えにしました。
祖父・家康がつくり、家光が固めた江戸幕府は、およそ260年続き、今の東京へと受けつがれていきます。

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