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第37回 渋沢栄一~近代化に尽くした人~

第37回 渋沢栄一~近代化に尽くした人~

■ scene 01 日本の経済を元気に!


渋沢栄一が活躍(かつやく)した明治時代の日本は、外国に負けない国を作るため経済を発展させる必要がありました。
そこで渋沢は、政治家としてではなく民間の立場から、日本の経済を元気にしました。
今の平成の世にはたくさんの会社があります。
渋沢はもっと昔の明治時代に、この原点ともいえるたくさんの株式会社を作ったのです。
株式会社とは、主に自分の利益のために運営する個人経営とは異なり、みんなでお金を持ち寄ることで大きなお金を生み出し、そのお金を使って事業をするというものです。


■ scene 02 農家に生まれ、幕府の家臣に

渋沢栄一は、幕末から昭和にかけて日本の経済をリードした人物です。
江戸時代の終わりごろ、渋沢は今の埼玉県の大きな農家に生まれました。
渋沢家は領主からたびたびお金を差し出すよう命じられていました。
ある日も、とつぜん五百両を要求されます。
ちゃんと年貢(ねんぐ)を納めているのに、そのうえ五百両とは。
自分たちが努力してためたお金を権力者が当たり前のように使うなんて納得できない。
渋沢はやがてふるさとをはなれ、大名・一橋慶喜(ひとつばし・よしのぶ)に仕えました。
慶喜はその後、徳川15代目の将軍に就任し、渋沢は幕府の家臣となりました。


■ scene 03 フランスで教わったこと

そんな渋沢に大きな転機が訪れます。
パリ万博に江戸幕府の一団として派遣(はけん)されたのです。
近代化したフランスの街に渋沢はおどろきました。
この旅で渋沢は、元銀行家のフランス人、フリューリ・エラールと出会います。
そして、フランスの繁栄(はんえい)を支えるのは「株式会社」の仕組みだと教わります。
会社を作るときに人々が自分のお金を出し合い、会社がうまくいって利益が出たら、それをみんなで分け合うというものです。
権力者がお金を吸い上げて事業を行うのではなく、人々がお金を投資するこの仕組みを、渋沢は日本でも広めたいと考えます。


■ scene 04 日本で初めての「銀行」を設立

そして帰国。
しかしそこにはおどろくべき事態が待っていました。
江戸幕府がたおされ、新しい時代が始まっていたのです。
渋沢も新しい経済の仕組みを作ろうと決心します。
まずは、株式会社の仕組みを使って、日本で初めての「銀行」を作ろうとしました。
人々によびかけ、銀行設立のためにお金を出してくれる「株主」をつのりました。
当時の株主名簿(めいぼ)には、大きな事業主から小さな事業主まで、71人が名を連ねました。


■ scene 05 ドキリ★明治時代の日本経済を大きく発展させた

こうしてついに、「株式会社 第一国立銀行」ができました。
ここでいう“国立”とは、“国の条例に基づく”という意味。
まぎれもなく、民間の人々の力で経営される会社が誕生したのです。
渋沢はさらに、紡績(ぼうせき)や海運業、鉄道などの株式会社を次々に設立・育成しました。
その数は500にのぼります。
渋沢は、明治時代の日本経済を大きく発展させたのです。


■ scene 06 逆境のときこそ行動を

渋沢76歳(さい)のときの映像がのこっています。
もうけ主義に走らず、日本経済のためにつくした渋沢は、多くの人からしたわれました。
その7年後、日本を大きな困難がおそいます。
関東大震災(しんさい)です。
第一線を退いていた渋沢は83歳にして再び立ち上がります。
経済界でのネットワークを生かして臨時病院や避難(ひなん)所などを次々に設置。
自らの家もたき出しのために使いました。
さらに、孤児(こじ)院を作り、震災で親をなくした子どもたちを助けました。
逆境のときは断固として行動を起こす。
おとろえることのない行動力の表れでした。


■ scene 07 ドキリ★関東大震災の復興や国際交流に貢献

渋沢は、生涯(しょうがい)を通して、国際交流にも力を入れました。
その一つが、“青い目の人形”の取り組みです。
日本とアメリカの子どもたちがたがいの国の人形を贈(おく)り合うというもので、渋沢は日本側の受け入れ窓口を務めました。
民間レベルでの交流を通し、世界との友好を深めたいと考えたのです。
人形は今も各地にのこされ、渋沢たちの思いを伝えています。
民間の力を信じ、日本を引っ張った渋沢。
その志は、経済人のわくを大きくこえたものでした。

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