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第8回 藤原道長~貴族の政治とくらし~

第8回 藤原道長~貴族の政治とくらし~

平安時代の“権力ナンバーワン”

平安時代の貴族、藤原道長(966~1027)。
この藤原道長、満月が好きだったようです。

天皇を中心に貴族が政治を行った

794年、京都に平安京が置かれてからおよそ400年間を、「平安時代」とよびます。
政治を行う権力をめぐって貴族のあいだで争いがくりひろげられ、その結果、ほかの一族より強い力を持ったのが藤原氏の一族です。

自分の娘を天皇の后に

道長はどのようにして権力を手に入れたのでしょうか。
道長は、まず自分の娘を天皇の后(きさき)にして、天皇の親戚にします
天皇と娘のあいだに男の子が生まれると、その子を次の天皇にしました
こうして天皇の祖父となった道長は、幼い天皇に代わって政治を行う「摂政(せっしょう)」として力をふるいました。

天皇と関係を深め強い権力をにぎった

しばらくして息子に摂政(せっしょう)をゆずり、自分は後見人として力を保ちます。
天皇が成人すると、息子は「関白(かんぱく)」となって天皇を補佐(ほさ)し続けます。
摂政と関白が天皇に代わって政治をするこのしくみを、「摂関(せっかん)政治」といいます。

私の力は満月のよう

この世をば わが世とぞ 思う望月の 欠けたることも なしと思えば」。
この歌は、「この世は私のものと思える。なぜなら、私の力は満月のようにまったく欠けたところがないのだから」という意味です。
実はこの歌、帝、つまり天皇に娘をとつがせたときのお祝いの席で道長がよんだ歌です。
この結婚でさらに大きな権力をにぎった道長は、自分の最高の気持ちをこの歌に表したのです。

貴族の住まい「寝殿造」

毎年5月に京都で行われる「葵祭(あおいまつり)」は、1000年ほど前の平安貴族の様子を今に伝えています。
平安貴族は、「寝殿造(しんでんづくり)」とよばれるとても広い屋敷に住んでいました。
屋敷の中心にある「寝殿」とよばれる建物では、お客をもてなしたり、儀式や行事を行ったりしました。
室内の特徴は、ほとんどかべがないことです。
屏風や布、衝立(ついたて)を使い、自由にスペースを作りました。
季節の変化や行事に合わせて、調度品の色合いや置き方を変化させていたそうです。

ぜいたくに暮らし、優雅に遊ぶ貴族

庭では貴族たちが優雅な遊びをしていました。
鹿の皮を合わせたボールをけって、地面に落とさないようにする遊び、「蹴鞠(けまり)」です。
あるいは、庭の小さな川にうかべたさかずきが流れてくるあいだに歌を作るという優雅な遊び、「曲水の宴(きょくすいのえん)」。
ぜいたくに暮らし、優雅に遊ぶ貴族。
では、その仕事とは何だったのでしょうか。

貴族は儀式や行事を行うのが仕事だった

かつて政治が行われていた京都御所には、貴族たちの仕事を記したものがのこされています。
儀式(ぎしき)や行事の数は200以上。
なかには今に伝わるものもあります。
3月には、子どもの病気をはらうため川に人形を流す行事が行われ、今の「ひな祭り」として伝わっています。
天皇に相撲(すもう)を見せる行事もありました。
五穀豊穣(ごこくほうじょう)をいのり、作物の出来ぐあいをうらなうために行われたそうです。
平安時代の天皇や貴族が行っていた行事が、現代に伝わっているのです。

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