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家康改葬:家康はなぜ日光で「神」になったか。Sankei

2015.1.17-  Sankei  1-8  引用編集は桑原政則

【家康改葬(1)】

家康はなぜ日光で「神」になったか 「江戸の真北」に意味がある



「百物揃千人武者行列」で運ばれるみこし。
約400年前の家康改葬を再現している=昨年10月、日光市山内

 「遺体は久能山に葬り、
葬儀を増上寺で行い、
位牌(いはい)は大樹寺に納め、
一周忌が過ぎてから日光山に小さな堂を建てて勧請(かんじょう)せよ」

 江戸幕府を開いた徳川家康は元和2(1616)年、75歳で亡くなる間際に側近を集めてこう遺言したとされる。

 久能山は家康が少年期と晩年を過ごした駿河にあり、江戸の増上寺は徳川氏、三河国の大樹寺は父祖・松平氏の菩提(ぼだい)寺。
下野・日光山だけが生前の家康や徳川氏に特別なゆかりがない。
「東照大権現」として今も人々の信仰を集める家康。
なぜ、日光で「神」として祭られることを望んだのだろうか。

 奈良時代後期に勝道上人が開いたとされる日光山は、関東武士の尊崇を集めた山岳信仰の霊場だった。鎌倉幕府を開いた源頼朝も寄進をしていたが、戦国末期には衰退していた。

 源氏の末裔(まつえい)を名乗って東国をまとめ上げ、天下を統一した家康は、頼朝を尊敬していた。
慶長18(1613)年には側近だった天台宗の僧・天海が日光山の貫主に就任。
頼朝を意識し、「日光再興」を図ろうとした意図がうかがえる。



 日光は地理的条件にも恵まれていた。
自然の要害で幕府防衛の拠点となる可能性を備えてもいたが、日光東照宮で長年神職を務め、「日光東照宮の謎」などの著作がある高藤晴俊さん(66)=日光市=は「日光が江戸から見て、北極星の輝くほぼ真北の方向にあったことに大きな意味があったのでは」と指摘する。

 北極星は、古代中国で宇宙を主宰する神と認識されていた。
天子南面す」の言葉通り、君主は北極星を背にして南向きに座し、神と一体となって国をつかさどるとされてきた。

 日光東照宮陽明門の真上には、夜になると常に北極星が輝いているのが確認できる。
「北極星を背に江戸を守る」という宗教的意義を持った場所として、日光は最適だった。



 「日光市史」によると、家康の御霊を乗せたみこしは元和3年3月15日に久能山を出発。
4月4日に日光山の座禅院に到着、儀式を経て正式に鎮座した。
改葬は、よろいかぶとに身を包んだ騎馬武者や、やりを抱えた兵ら総勢1千人に及ぶ大行列だったとされる。
日光東照宮で今も春秋の例大祭で行われている「百物揃(ひゃくものぞろい)千人武者行列」は、この様子を再現したものだ。

 天下人となった家康が、恒久平和を願う神となるための重要な儀式だった日光改葬
大きな役割を果たしたのが、「黒衣の宰相」として辣腕(らつわん)を振るった天海と臨済宗の僧・崇伝、それに家康の葬儀を取り仕切った吉田神道の権威・梵舜という3人の聖職者だった。

 梵舜は、豊臣秀吉が死後に自らを「豊国大明神」として祭らせた豊国神社の創建に関わった。
高藤さんは「秀吉を神格化した際の宗教的な奥義を知る梵舜に葬儀を任せたのだろう」と推測する。

 また、家康の神号をめぐり「明神」か「権現」かで論争が起き、秀吉と同じ「明神」を推した梵舜と崇伝に対して天海が「権現」を主張。
論争に勝った天海が、その後の宗教的主導権を握ったといわれる。

 ただ、高藤さんは「日光への改葬には崇伝が大きな役割を果たした」との見方を示す。
神号論争に敗れた「引き立て役」として語られることが多いが、高藤さんによると、慶長19年、家康が京の五山の僧侶に「論語」にある北辰(北極星)についての文章を書かせた際、崇伝が序文と跋文(ばつぶん)を加えている。

 家康を北極星に見立てる神格化の萌芽(ほうが)が垣間見える出来事で、「梵舜が神道の伝統にのっとり神格化への道筋をつけ、崇伝が日光遷座の設計図を描き、天海がそれを仕上げたという流れだったのでは」(高藤さん)。
いずれにしても、綿密に計算された神格化であったことは間違いない。

 戦国時代の研究で知られる静岡大名誉教授の小和田哲男さん(70)は「家康は260年を超える太平の世を実現しただけでなく、いわば右肩上がりの拡張主義だった戦国時代から低成長・安定の時代へと舵を切った。現代にも通じる部分がある」と話す。

 冒頭に紹介した遺言は、「そして八州の鎮守となろう」と続く。家康の御霊は今も日光から江戸(東京)や関東、日本全体を見守っている。(宇都宮支局 原川真太郎)



 2015年は家康の400回忌に当たる。世界遺産「日光の社寺」の中核をなす日光東照宮への改葬の道程をたどり、改めて家康の功績や影響について考える。


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【家康改葬(2)】
「久能山」か「日光」か 家康の遺体はどちらにある

徳川家康が葬られた場所に立つ廟。
遺命に従い、西を向いている=静岡市駿河区の久能山東照宮
1159段の石段を登ると、眼下に駿河湾の絶景が広がる。
徳川家康が晩年を過ごした駿府城跡から東に約8キロ離れた久能山(標高216メートル)の山頂に鎮座する久能山東照宮(静岡市駿河区)。
日光東照宮ほどの規模ではないが、緑に囲まれ、静謐(せいひつ)な空気が漂う。

 今はロープウエーで気軽に訪れることができるが、当時は歩いて登るしかなかった。
元和2(1616)年4月17日に亡くなった家康の遺体は、その日のうちに久能山に移る
一部の側近を除き登山を禁じられ、通夜も営まれなかった。

 「人目を忍んで運んだのは、神になるためにはどうすべきか、ひそかに準備していたのでしょう」。久能山東照宮の落合偉洲(ひでくに)宮司(67)が説明してくれた。

 家康は晩年、将軍の座を三男・秀忠に譲り、隠居。
「大御所」として二元政治を敷いた。
生前には「久能山は駿府城の本丸」と話しており、自らを埋葬する場所として指定した。

 家康の死後、日光東照宮に先駆けて着工した久能山東照宮は、いわば「最初の東照宮」。江戸時代を代表する大工頭・中井正清の手による社殿群は平成22年、国宝に指定された。

 宮内の一番奥に、家康が埋葬された「神廟」がある。
当初は小さなほこらだったが、三代将軍・家光の命令により高さ5・5メートルの石塔が建てられた。

 石塔は遺命に従い、西を向いている。
家康が死去した当時、西国にはまだ豊臣方の残党がうごめいていた。
江戸との間に立ち、にらみを利かせるためだったと考えられている。

 しばしば話題となるのが、家康の御霊を久能山から日光に移した際、遺体も移したか否かだ。
改葬は大化の改新で知られる藤原鎌足の死後1年後、摂津から大和に遺体を移した故事にならったものとされ、「遺体も移ったと考えるのが自然」とみる識者もいる。
ただ、落合宮司は「家康公は今もここに眠っていると思っている」と話す。
「四角い棺(ひつぎ)の中に正装して座し、西を向いているはず。
遺体を日光に運んだのなら、久能山に大きな墓を建てる必要はなかった

 改葬を取り仕切った僧・天海が「あればある無ければなしと駿河なる くのなき神の宮うつしかな」という和歌を残していることもその証左だという。「くのなき」は「躯(く)=むくろ=のなき」と読めるからだ。

 久能山の神廟も日光の奥宮も、これまで発掘調査は行われていない。
いずれにせよ、「御霊は久能山と日光にあり、人々を見守っているのは間違いない」(落合宮司)。

 静岡市は今年、同じく家康ゆかりの地である浜松市や愛知県岡崎市と合同で「家康公四百年祭」を実施。官民合同でさまざまな関連イベントを開催する。静岡市地域活性化事業推進本部の担当者は「この機会に多くの人に家康公の偉業を再確認してもらいたい」と話す。400年を経ても大御所の威光は衰えていない。(宇都宮支局 原川真太郎)



■日光東照宮・稲葉久雄宮司に聞く

 世界遺産でもある日光東照宮は今年、歴史的な節目の「400年式年大祭」を迎える。陣頭指揮に当たる稲葉久雄宮司(74)に大祭への思いや意義について聞いた。(宇都宮支局長 鶴谷和章)

 --「400年式年大祭」の今年は、一年を通してどんな年になりますか

 「東照宮の社殿は、平和を尊ぶ彫刻に満ちており、創建当初より御祭神徳川家康公が『平和の神様』として崇敬されてきました。参拝者には共に世の中の平安を祈っていただけるよう呼びかけたい。400年祭が平和への思いを結集する契機になることを望みます」

--式年大祭の主な行事やイベントにはどんなものがありますか。

 「春秋の大祭を厳格に斎行して御心威の高揚を祈願することが中心になりますが、他に新宝物館開館記念展、武道大会、文墨祭、ホースバックアーチェリー大会、ステージイベントなど奉納行事が多数あります」

 --県内外からの観光客には、どんなところを見ていただきたいですか。

 「境内では、修理が終わり、よみがえった拝殿・唐門のきらびやかな姿を見ていただきたい。日光のまち全体が大祭によって活気づいた様子も見ていただきたい。これは期待を込めて言うのですが、日光駅に降り立った瞬間から東照宮を訪れる期待感が高まるような受け入れができないかと思っています」

 --家康公は恒久平和の礎を作った人物として現代でも評価が高まっています

 「戦国時代の日本を最終的に統一した人ですが、その前提として近隣諸国との平和外交の樹立がありました。世界史上の偉人として位置づけられるべきです。だからこそ、当宮には外国からも大勢の参拝者がいらっしゃるのだと思います」

 --「平成の大修理」の進み具合は

 「平成19年に始まり、既に御本社の床などの工事、拝殿・唐門・透塀・神輿社の塗り替え工事が終わりました。陽明門修理も始まっており、3、4年後に終了します。今年の400年式年大祭は陽明門が素屋根で覆われた状態で迎えますが、修理の際には牡丹彫刻の羽目板を外したところ、宝暦年間に描かれた絵画が現れました。修理中ならではの見どころです」

 --世界遺産として後世への保存継承ではご苦労も多いのではありませんか

 「文化財の保存継承にはお金がかかります。国の補助も受けていますが、自然災害などに備え、常に財源を確保しておく必要があります。被害を最小限に抑えるには防災設備を備え、職員の訓練も欠かせません。いつでも修理できる態勢作りや職人養成も必要です」

 --春秋の例大祭の流鏑馬(やぶさめ)神事、百物揃(ひゃくものぞろい)千人武者行列での苦労や課題は

 「伝統行事を守っていくには地域の人々の協力は不可欠。道具や装束類の整備も大切です。簡単に手に入らないものばかりなので経費をかけてでも修理し、特別にしつらえるなどして神事・祭典の威容を守っていかなければなりません」



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【家康改葬(3)】
人生変えた小田原 秀吉による江戸幽閉を逆手に東国支配固める




 一介の浪人から身を起こした北条早雲に始まり、戦国時代に相模を中心として約100年間にわたって繁栄を極めた北条氏。神奈川県小田原市中心部の高台に立つ小田原城は、復元ながら往事の栄華をしのばせる威容をたたえている。

 徳川家康の御霊を奉じた大行列は久能山を出発した後、善徳寺(静岡県富士市)、三島(同県三島市)を経て小田原に到着した。江戸時代に編纂(へんさん)された地誌「新編相模国風土記稿」には、小田原城滞在の記録が残っている。

 小田原は家康にとって、人生の転機となった場所だった。江戸幕府の公式記録「徳川実記」によると、天正18(1590)年、豊臣秀吉が大軍を率いて北条氏を滅ぼした「小田原征伐」に参加した家康は、北条氏の後釜として関東に領地替えするよう秀吉から告げられた。

 当時、家康の支配地域は東海地方を中心に5国に及んでいた。関東移封(いほう)により秀吉配下の大名の中で最大の領土を得たが、本拠地を離れることになった。背景には、伸長する家康を関東に封じ込めようという秀吉の思惑があった。

 しかも、秀吉が本拠地とするよう示唆したのは、小田原よりさらに東に位置する江戸だった。これも家康は粛々と受け入れている。

 宇都宮市出身の小田原市文化財課長、大島慎一さん(55)は「小田原攻めの時期はまだ、東北が安定していない。娘を嫁がせており北条氏と親戚(しんせき)関係にあった家康が小田原城に拠点を構えるのは危険だと秀吉は判断したのだろう」と話す。

 必ずしも本意ではなかったであろう江戸入り。それでも家康は、有力な家臣を要所に配置するなど、着々と東国支配の地盤を固めていった。小田原攻めが終わらない段階で江戸に家臣を派遣するなどして、現地を調査させていた形跡もあるという。

 家康が、江戸を単なる東国の田舎ではなく、拠点となり得る場所だと認識していた可能性すらある。大島さんは「元々三河を拠点としていた家康は、伊勢湾の水運の関係で江戸が東国の流通の要だと把握していた節があった」と指摘する。

 秀吉は、織田信長の次男で小田原攻めに従軍した織田信雄(のぶかつ)に空いた家康の旧領への移封を命じたが、拠点だった尾張と伊勢に執着していた信雄は拒否。秀吉の怒りを買い、下野・烏山に左遷させられてしまう。

 三河の小勢力だった松平氏の跡取りとして、隣接する織田氏や今川氏の人質となるなど苦難の少年時代を過ごした家康。長い雌伏の時を経て関ケ原の戦いに勝利、豊臣家を圧倒して天下人となったが、幕府を開いた場所は、秀吉に配置換えを強いられた江戸だった。(宇都宮支局 原川真太郎)


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【家康改葬(4)】

地形把握も兼ねていたタカ狩り 遷霊行列は神奈川・平塚と東京・府中で「御殿」に宿泊
大国魂神社の境内にたたずむ東照宮。
2代将軍の秀忠が造らせた=東京都府中市
徳川家康の死後、日光や久能山を筆頭として全国各地に東照大権現をまつる東照宮が造営された。
廃絶されたものも含めて大小700カ所近くが確認されているが、将軍家や譜代大名ゆかりの地はもとより、生前の家康が立ち寄った土地に建てられたものも多い。

 代表的なのが、「御殿」と呼ばれる休憩・宿泊施設だ。
タカ狩りを好んだ家康は、各地にその際に立ち寄る御殿を造らせていた。

 小田原を出た遷霊の行列が次に宿泊した中原(神奈川県平塚市)と府中(東京都府中市)での滞在先も、「タカ狩り御殿」だ。
中でも、現在のJR府中本町駅の隣にあった「府中御殿」は、近くを多摩川が流れ、富士山が見渡せる高台の景勝地だったという。

 「府中」の地名が示すとおり、この場所には奈良時代、武蔵国司の館があった。
御殿は天正18(1590)年に造営。奥州征伐から帰った豊臣秀吉を迎えるために造ったとの説もある。
家康、秀忠、家光の3代にわたり使用されたが、正保3(1646)年の大火で焼失。
その後は再建されず、いつしか原野となっていた。

 平成20年から始まった本格的な発掘調査で国司の館とみられる遺構が見つかり、区域一帯が国史跡に指定された。
22年には、江戸時代前期に将軍家のみが使った家紋「三葉葵紋」が入った鬼瓦の破片も出土。家康御殿の存在も改めて裏付けられた。

 府中市ふるさと文化財課の江口桂課長(48)は「家康のタカ狩りは、趣味を楽しむほかに、地形を把握するという軍事演習の側面もあった。
挨拶に来た地域の有力者を品定めしていたという話もある」と指摘する。
支配地域の基盤固めにも一役買っていたようだ。

 地元では現在、国府跡と御殿跡という貴重な歴史遺産を活用しようという動きが進んでいる。
府中市は周辺の用地計約7900平方メートルを取得。
今年度中に基本設計がまとまる見通しだ。

 江口課長は「まずは国司の館を復元整備する方針だが、やはり家康はネームバリューがある。よりよい活用策を考えたい」としている。

 一方、府中の東照宮は御殿跡のすぐ近くにある大国魂(おおくにたま)神社の境内に、ひっそりとたたずむ。
同神社は1900年前の創立と伝わる武蔵国総社で、江戸時代には幕府から手厚い保護を受けて発展。
今も多くの参拝客が訪れる。

 神社の宝物館には、家康が身に付けていたという陣羽織や歴代将軍から贈られた社領寄進状などの徳川家ゆかりの品々が、今も大切に保管されている。
飯塚礼寿権禰宜(ごんねぎ)(44)は「今の神社があるのは、家康公のおかげと言ってもいいかもしれない」と笑った。(宇都宮支局 原川真太郎)


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 映画「のぼうの城」で知られる忍(おし)城(埼玉県行田市)。ここも日光に向かう徳川家康の霊柩(れいきゅう)が安置された場所だ。

 元和3(1617)年3月23~26日、家康の棺(ひつぎ)は仙波(同県川越市)で喜多院に留め置かれ、僧を集めて大法要が営まれた。導師は家康側近で喜多院住職の天海
忍城には3月27日に到着し、本丸御殿に安置されたともいわれている。

 忍城はかつて四方を沼に囲まれていた。
石田三成の水攻めへの抗戦を描いた映画にも登場したように豊臣秀吉の小田原攻めの頃は北条氏の支城で、水攻めに耐え抜いた“浮き城”だ。

 現在の行田市を訪ねてみると、城を囲んだ広大な沼は市街地に変貌。
本丸跡は城址公園となっていた。
土塁の一部を残し、御三階櫓(やぐら)が再建され、歴史を今に伝える。

 公園内にある同市郷土博物館学芸員の沢村怜薫さん(28)に聞くと、忍は家康が特に目をかけていた城下だったという。

 家康が秀吉の命令で関東に移封(いほう)されたおり、江戸を守る北の防衛拠点として整備に乗り出したのが忍、川越、岩槻の3城だった。

 忍は家康がタカ狩りで何度も立ち寄った場所。
歴代城主は徳川ゆかりの大名で、家康の四男、松平忠吉をはじめ譜代大名が続いた後、家康の孫を家祖とする松平忠堯(ただたか)が桑名から移り、廃藩置県まで5代にわたって松平家が忍藩を治めた。

 沢村さんは埼玉県内を縦断した家康の改葬ルートについて「忍からは日光脇往還である館林道を行ったようだ。宿場に棺(ひつぎ)をとどめるわけにはいかない。ゆかりの寺社などに立ち寄ったために、この道筋になったのでは。忍と川越が、徳川にとって特別な場所だったことも挙げられる」と話す。

 家康の棺が安置された川越と忍には後に、それぞれ東照宮が建立された。

 川越は家康の大法要が営まれた喜多院境内にある仙波東照宮(川越市小仙波町)で、天海が丘陵を築き上げて社殿を造ったとされる。
火災で焼失後も3代将軍、家光が再建を命じた。
日光、久能山と並ぶ日本三大東照宮の一つである。

 忍は城址公園と通りを挟んだ忍東照宮(行田市本丸)。
奥平系松平家の祖、忠明が大和郡山に建てた東照宮を忠堯が城内に移した。
忠明は家康の長女・亀姫の四男。
松平家には家康が亀姫に与えたという家康自身の肖像画が伝わり、忠堯が忍東照宮に奉納した。
行田市教育委員会によると、縦101センチ、横51センチ。埼玉県指定文化財。
42歳の家康といわれ、衣冠に身を正し、しゃくを持つ正装した姿が描かれており、非公開だ。

 家康の棺は一晩忍城にとどまり、翌28日朝に佐野に向けて出発した。
「徳川実紀」によると、利根川では館林城主の松平(榊原)忠次が、渡良瀬川では小山城主の本多正純が船を用意し、川を渡ったと記されている。(宇都宮支局 伊沢利幸)



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【家康改葬(6)】
元城主に義理立てした4寺は廃止に 道中の栃木・佐野で一波乱

 佐野の人々は「大師さま」「春日岡」と呼ぶ。
佐野厄除け大師で知られる栃木県佐野市の惣宗寺(そうしゅうじ)。
天慶7(944)年創建の古刹(こさつ)で、慶長5(1600)年ごろ、佐野氏の佐野城(春日岡城)築城に伴い現在地に移った。
城門の名残とされる山門前に巨大な石碑が立つ。

 「そこに『重興東照神廟之碑』と刻んでありますね」。
郷土史家、京谷博次さん(81)は石碑の上部を指さした。
裏面には寄進者名が連なり、文政11(1828)年の佐野東照宮造営を伝える。

 佐野東照宮は惣宗寺境内の北西に鎮座する。
公道沿いに唐門があり、拝殿、本殿と並び、本殿周りには透塀(すきべい)。
朱塗りの柱やはりに、龍や獅子などの精緻な彫刻が極彩色で施され、徳川家の紋章「三つ葉葵」の飾り金具が金色に輝く。
全国に約500社ある東照宮の中でも貴重で、県指定文化財になっている。

 「江戸時代は世界史的にもまれな平和な時代で、その礎を築いた家康公がまつられ光栄に思う」と住職の旭岡靖人さん(50)。毎年5月16、17日の例大祭は「権現様」とも呼ばれ、以前は植木市でにぎわいを見せた。

 佐野東照宮の起源は元和3(1617)年3月28日にさかのぼる。
忍(埼玉県行田市)を出た家康の棺(ひつぎ)は館林(群馬県)を経て「佐野の春日岡という寺に入奉る」(徳川実記)。
御殿に安置され、武者千人が警護した、という。

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 惣宗寺に1泊した理由として、住職、三海が家康の側近、天海のまな弟子であることや、佐野が家康の懐刀、本多正純の所領地になったことが関係すると指摘されている。


 「改葬ルートですか? こうでしょう」。京谷さんは調査歴50年余り。朴訥(ぼくとつ)な語り口に耳を傾けながら、群馬県境の渡良瀬大橋から車を走らせた。一行は早川田(さがわだ)の渡しから舟橋で渡良瀬川を渡り、改葬用に急造させた椿田土手を経て、後に八王子千人同心も通う旧街道を北上、街中を抜けて惣宗寺に入った、とみる。

 正純の命令に背き、読経に遅れた4つの寺は廃寺になった。佐野氏ゆかりの寺で、徳川家に反発したらしい。既にその3年前、佐野氏は改易(かいえき)(取りつぶし)。佐野城は取り壊され、佐野氏の手掛けた天明(てんみょう)(佐野中心部)は城下町から宿場町に姿を変える。

 「佐野家が衰え、徳川家が栄える。佐野東照宮は徳川家支配の象徴でしょう」と京谷さん。日は傾き、冬枯れの佐野城跡(城山公園)に人影はまばらだった。(宇都宮支局 川岸等)



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【家康改葬(7)】

側近「天海」が推した栃木・鹿沼の薬王寺は別格
境内に入り、すぐ左にある徳川家光の墓(日光山輪王寺大猷院奥院)と同じ鎧塔
=栃木県鹿沼市石橋町の薬王
佐野の惣宗寺を出発した徳川家康の霊柩(れいきゅう)は元和3(1617)年3月29日~4月3日の4日間、栃木県鹿沼市の真言宗智山派薬王寺に滞在した。
改葬道中の止宿で最も長日にわたる。

 第30代住職の倉松俊弘さん(58)は「日光での埋葬準備や日を選んだためとも言われるが、本当のところは分かりません」と言いながら、「止宿の間、盛大に法要したのは間違いないと思います」。
今でも、2、3日かける大がかりな供養があるという。

 「邪気が入ってはいけない」と寺の周囲を竹の塀で覆って、霊の安置場所を結界で守り、昼夜法要が営まれたとみられる。

 薬王寺縁起によれば、薬王寺は鎌倉時代の弘長年間(1261~64年)の創建と伝えられ、寺には、家康遷霊の道程を記した寺宝「東照宮渡御之記(とぎょのき)」が残る。

 なぜ改葬列は、この寺に止宿したのか。
倉松さんは「天海と、関東一円の触頭(ふれがしら)だった当寺の住職、俊賀(しゅんが)が親しい間柄だったのではないか」とみている。

家康の側近で日光遷座を主導したとされる僧、天海は、埼玉県川越市にある関東天台宗の本山、喜多院の住職を務めるなどし、天台宗と真言宗の宗派は違えど、仏教界の要職同士付き合いが深かったのは当然だろう。
「そうした縁で天海が当寺を改葬の旅程に組み込んだのだと思います」

 薬王寺と徳川家との関係は、家康にとどまらない。孫の家光と天海自身の日光葬送の際にも、止宿先に選んだことで明らかだ。

 境内には、家光の廟、日光山輪王寺大猷院奥院にある宝塔と同じ鎧塔(よろいとう)が建ち、明治までは東照神社があった。

 倉松さんは「先代から、かつて寺には家康公の刀や草履があったと聞かされました」と話す。
だが、貴重な史料は寛文3(1663)年の火災で焼失してしまった。

 寺は何度か建て替えられたが、本堂には、色鮮やかな竜の彫刻が施された欄間があり、本堂入り口の石段の上にも立派な白木の竜がかかる。

 「日光東照宮造営で当地に来ていた宮大工の棟梁(とうりょう)とその弟子たちの作」(倉松さん)ということで、市内の寺には、当寺の宮大工や造営の仕事をきっかけに関東近辺に住み着いた職人らの彫刻が数多く残る。

 鹿沼市は、木工と「ぶっつけ」で有名な彫刻屋台が知られるが、その彫刻は豪壮、緻密。東照宮の絢爛(けんらん)豪華な彫刻の数々を生み出した職人たちの技が今も生きている。(宇都宮支局 高橋健治)



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【家康改葬(8)完】

整備された日光へのルートが開国後、外国人らを避暑に誘った

春と秋の日光東照宮例大祭で行われる流鏑馬(やぶさめ)。毎年大勢の観光客が訪れる
改葬を経て「神」となった徳川家康。
その存在は宗教的権威としてだけでなく、日光が観光都市として発展するのに大きく寄与したといえる。

 日光が観光地化したのは明治以降。
外国人居住者の旅行規制がなくなり、蒸し暑い日本の夏から逃れる避暑地として中禅寺湖畔などを訪れる外国人が増え、ホテルや旅館の開業も相次いだ。
日光市教育委員会文化財課の鈴木泰浩課長補佐は「家康の改葬を機に日光へ向かう街道が整備されており、人々が訪れやすい下地ができていた」と指摘する。

 歴代将軍や諸大名の社参に使われた江戸・日本橋と日光を結ぶ「日光街道」や東照宮に奉献する供え物「幣帛(へいはく)」を運ぶ勅使が通った「例幣使街道」は、今も観光客が利用する主要道として重要な役割を果たしている。

 歴史的な景観が守られていたことも大きい。
かつて日本では「神仏習合」が一般的だった。
神社と寺院が同じ敷地内に共存していることも少なくなかったが、明治政府の神仏分離令により神社と寺院は分離・独立し別々のものとして扱われるようになったほか、廃仏毀釈運動も起きた。

 東照宮、二荒山神社、輪王寺の2社1寺も例外ではなく、それぞれ敷地は分離され、移設も計画されていた。
そんな折、日光を訪れた明治天皇が「旧観を失うなかれ」と口添えし、市民の根強い反対もあって移設は中止され、影響は最小限にとどまった。

 こうして守られた景観は「人類の歴史上重要な時代を例証する建築様式、建築物群」と評価され、平成11年の世界文化遺産登録につながった。
鈴木さんは「家康公の御霊が祭られていたからこそ、(寺社移設に)多くの反対があったのではないか」と推測する。

 また、総延長約35キロと世界最長の並木道としてギネスブックに登録されている「日光杉並木」は、家康の近臣だった松平正綱が約20年の歳月をかけて植えたもの。
大規模な伐採などはされておらず、今も日光の代名詞となっている。

 家康によって観光地としての礎が築かれた日光。
日光東照宮400年式年大祭を機に、外国人観光客に家康の存在をアピールしようという動きも出ている。

 国土交通省関東運輸局では、作家・山岡荘八の小説「徳川家康」がベストセラーとなった中国本土や、家康への関心が高い台湾、東アジアの観光客を対象とした誘客事業を計画。旅行代理店などを対象に日光東照宮をはじめ家康にちなんだ場所をめぐる視察ツアーを実施したほか、旅行商品のアイデアをコンテスト方式で募集するなどしている。

 平成25年に日光市を訪れた観光客数は約1千万人に上るが、うち外国人は約4万人と、意外なほど少ない。
同局は「海外でも人気の高い家康にちなんだ観光資源を活用し、誘客につなげたい」としている。

 戦乱を治めて泰平の世をもたらした家康。400年を経て、「観光振興」という形で日本を救うことになるかもしれない。(宇都宮支局 桑島浩任)

=おわり

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