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『探訪 比企一族』。 東松山のグループが出版

2015年11月5日】東京新聞、引用編集
本を執筆した比企一族歴史研究会の
西村裕さん(中)、木村誠さん(右)と企画担当の佐浦希望さん
平安末期から鎌倉時代にかけての比企地方(現在の東松山市など)の豪族・比企一族について研究する東松山市の市民グループ「比企一族歴史研究会」が、成果をまとめた単行本「探訪 比企一族」(A5判二百八十三ページ、千七百二十八円)を出版した。
比企一族は流刑中の源頼朝を物心両面で支え、鎌倉幕府誕生に大きな役割を果たしたが、頼朝の没後、北条氏に滅ぼされた。
このため史料は少なく、全国的な知名度も低い。
研究会は「県民に比企一族を知ってもらい、町おこしにもつなげたい」と話している。 (中里宏)

 研究会は東松山市が運営する「きらめき市民大学」の郷土学部で二年間学んだ市民を中心に二〇一二年四月、発足した。
現在の会員は二十九人。
会長の西村裕さん(68)は「比企一族のことを授業で学んだのがきっかけ。歴史に埋もれ、地元でもあまり知られていない一族をもっと勉強し、市民に語り継いでいこうと有志が集まった」という。

 研究会は鎌倉幕府による歴史書「吾妻鏡」などの文献研究のほか、平治の乱(一一五九年)の後、頼朝が幽閉されていた静岡県・伊豆地方に出かけて伝承・伝説を調査した。
原稿は西村さんと副会長の木村誠さん(75)が執筆した。
西村さんは「歴史は勝者の記録と言われるように、北条氏側から書かれた吾妻鏡には、比企一族のことがわずかしか書かれていない。
しかし、各地に伝承・伝説は残っている。
これらの伝承こそが敗者の歴史ではないかと思う」と話す。
木村さんは「伝承・伝説にくわしい人の高齢化が進み、時間との闘いだった」という。

 頼朝の乳母だった比企尼(ひきのあま)は、伊豆に流されて孤立無援だった頼朝を二十年にわたり物心両面で支援したとされる。
研究会は「比企尼の支援がなければ、鎌倉幕府の成立はなかったといっても過言でない」とみる。比企尼の次女、三女は頼朝の嫡男の二代将軍頼家の乳母に任ぜられたほか、家督を継いだ養子の比企能員(よしかず)の娘・若狭局(わかさのつぼね)は頼家の妻となるなど、一族は初期の鎌倉幕府で有力御家人となった。

 このほか、比企尼の長女の丹後内侍(たんごのないし)は、江戸時代まで薩摩藩主を務めた島津氏の祖・島津忠久の母親で、次女は現在の川越市を拠点にした河越重頼(しげより)に嫁ぎ、その娘は源義経と最期をともにした正室の郷(さと)御前とされる。

 東松山市周辺には、頼家が北条氏に殺された後、比企地方に戻った若狭局が、迷いを断ち切るため頼家の形見のくしを投げ入れたとの伝説が残る串引沼など、比企一族にまつわる伝承や鎌倉と共通する地名が多い。

 西村さんは「今後は義経と郷姫の話や島津氏に関する鹿児島の伝承などを足を運んで調べたい」と話している。
 問い合わせは「まつやま書房」=電0493(22)4162=へ。

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