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源義経。頼朝の弟で平氏を滅ぼす。Minamoto no Yoshitsune。6月15日没

源義経。頼朝の弟で平氏を滅ぼす。Minamoto no Yoshitsune。6月15日没
源 義経


・1159年ー1189年6月15日没。31歳。岩手県の平泉

源義経は、平氏をほろぼしましたが、
兄 頼朝に追われて31歳の生涯を閉じた悲劇の武将です。

源平の合戦図
/ http://www.kamakura-burabura.com/rekisigennpeinokassenu10.htm


義経の父・源義朝(みなもと の よしとも)は、平清盛に敗れました。
その時義経は2歳でした。

僧になるために京都の鞍馬寺に預けられました。
そのご、奥州 平泉の藤原秀衡(ふじわら の ひでひら)のもとで成長します。

1180年、兄・頼朝が兵を挙げると、頼朝のもとに駆けつけました 。

一ノ谷(いちのたに)・屋島・壇ノ浦(だんのうら)などの戦いにめざましい活躍をして、平氏をほろぼした。

【名言】

「勝つということは味方に勝つ事である。
味方に勝つというのは我に勝つ事である」

【受験】

1180年。人々、矢を放て、平家打倒。   源頼朝が伊豆で兵をあげる。
その5年後 1185年が壇ノ浦の戦いです。
平家が滅びました。


【補足】

・小さい頃は牛若丸と言いました。

・頼朝と義経は兄弟ですが、お母さんが違いました。

頼朝は武士による政権を考えていました。
しかし、弟の義経は京都で後白河法皇の家来になってしまいました。
義経はこのことを兄に相談していませんでした。

義経は戦いの天才だったけども、政治的なことは苦手でした。
そのため兄の頼朝の怒りを買ってしまいました。

・義経は頼朝に敵とみなされ追われました。
義経は以前自分をかくまってくれた藤原秀衡を便り、平泉に逃げました。
しかし秀衡がなくなってしまい、義経は自害しました。
31歳でした 。

・運動会のアカ組対シロ組は、平家と源氏の戦いに由来します。
源氏はシロ組です。

・義経は、いくさ上手でカッコよかったので、
負けても、人気があります。
とくに東北では圧倒的に支持されています。【cf.】判官(ほうがん)びいき

源義経:兄・頼朝を激怒させた残念なポイントとは?  【+1】

源義経:世間無知が招いた悲劇

河越重頼の娘は義経の正妻:河越館跡 



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【cf.】『常識逆転!の日本史』    NHK BS歴史館

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