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評価が低い5代徳川綱吉だが… 近年の研究で新たな説

評価が低い5代徳川綱吉だが… 近年の研究で新たな説
     
2017/1/27 dot.

 1月28日は旧暦のお正月。日本ではほとんど意識されることがなくなった旧暦だが、日本に太陽暦(現在の暦)が導入されたのはわずか145年前のこと。飛鳥時代から明治時代までは一貫して太陰暦と呼ばれる旧暦が使用されていた。しかも江戸時代に至るまで、中国で編さんされた暦しか日本にはなかったのだ。

●「犬公方」の実母・桂昌院

 江戸時代には、平安時代に伝えられた暦を800年以上にもわたり使い続けていたため、すでにあちこちに不便が生じていた。古い暦の改正に取り組み、初めて日本人の手で編さんされた新しい暦が誕生したのが1685年。編さん者は渋川春海という天文学者で、これを命じたのは五代将軍・徳川綱吉だった。

 徳川綱吉は、徳川幕府の体制を盤石にしたと言われる三代将軍・家光の四男である。ほとんどの日本人はこの将軍について、生類憐みの令や、犬を過度に大切にさせたことからつけられた「犬公方」というあだ名しか知らないのではないだろうか。しかし近年の研究では、綱吉と実母・桂昌院の時代に、それまでの政治から180度変わったのではないか、という説も出始めている。

●江戸時代のシンデレラ・桂昌院

 桂昌院は、日本の神社仏閣にある建造物を大いに救ってくれた人物だ。これは、波乱に満ちた彼女の人生に裏打ちされた行為と言ってもよいかもしれない。

 桂昌院は、元の名を“お玉”と言った。京都・西陣の八百屋の娘として生まれ、母の再婚や義理の父のあっせんなどもあり、13歳で大奥に侍女として上がる。その後19歳で春日局(家光の乳母。実母という説もある)の目に留まり、やがて家光の側室となった。

 最終的に、女性としては最高位である官位(従一位という上から2つ目の位)まで上り詰めるのだが、こうした桂昌院のシンデレラのような出世を指して、「玉の輿」という言葉が生まれたのではないか、とも言われている。

●神仏からの加護へのお返し

 桂昌院は、2度ほど僧侶に「あなたの産む子は天下人になる」と言われている。しかしながら、わが子・徳松(のちの綱吉)は四男である。本来ならば将軍の椅子が回ってくることはないはずなのだが、桂昌院はこの僧たちの言葉を信じ、幼い頃から徳松に学問中心の生活をさせた。今でいう帝王学を学んだ綱吉は、34歳の時ついに将軍職への道が開き、54歳となった桂昌院は将軍の実母の地位に座ることになる。

 この出世を神仏の加護と考えた桂昌院は、以後、日本全国の寺社に大いなる寄進と普請を進めていった。奈良・東大寺の大仏殿をはじめ、法隆寺、唐招提寺、恩のある善峯寺の復興、東京文京区の護国寺の建立など、まさに今現在残る多くの遺産の保全と建築に桂昌院と綱吉は関わっている。

●生類憐みの令が誕生したわけ

 やがて、綱吉に嫡男が生まれるも5歳で夭逝。以後、子宝に恵まれないのは「世に対する功徳が足りないせい」と考えるようになった綱吉と桂昌院は、功徳となる改革が何かないかと考え始めた。時代はまだ、町中での辻斬り、子殺しなど戦国の風潮が残る荒れた世の中、綱吉が発布したのが「生類憐みの令」だったのである。

「犬を殺してはならない」という側面ばかりが取り上げられている法律だが、困窮者には米を支給、病人に対する無料での治療、全国で没落した100以上にものぼる小さな寺社の復興資金の提供など、今でいう福祉的・公共事業的な側面を持つ法律でもあったと近年の研究では指摘され始めている。この時幕府が負担した費用は70万両(現在の700億~1000億円くらい)で、全資産の1/3をつぎ込んだと記録されている。

●吉宗が師と仰いだ綱吉

 結局、綱吉に世嗣ぎは生まれず、富士山が爆発したり、赤穂浪士が仇討ちを果たしたりと、綱吉にとっては不運にも見舞われ、後世の悪評にもつながってしまう。加えて以後の六代・七代目は、長い徳川幕府の中で最大のピンチとなる綱渡りの世代交代時代となるのだが、続く八代・吉宗は、テレビドラマとしてもおなじみの名君として知られる将軍となった。この吉宗は綱吉をとても尊敬し、自らの改革にも綱吉の考えを取り入れ、自分の墓も寛永寺の綱吉のそばに作らせているほどである。

 また、桂昌院が詠んだ句に「法の師のをしえたまうにならいそてわが後の世もたのみこそすれ」(もう何年も仏さまの教えに触れています。ですから、どうか私の後の世も人々が幸福でありますようお守りください)というものがある。この2人がいなければ、神社仏閣が今のような形で存在していたかどうかは怪しいものだ。

 桂昌院の生まれた西陣近くにある「今宮神社」では、彼女にちなんだ“玉の輿守り”が授与されている。また、江戸城で桂昌院が毎日拝んでいたと伝わる「福壽神」が鎮座する東京秋葉原の柳森神社には、玉の輿に乗りたい人たちの参拝が多いと聞く。

 玉の輿に乗った桂昌院は、ほんとうに幸せだったのかは今ではまったくわからないが、乗ったら乗ったで、悩みも深く、責任も重くなるものかもしれないと、桂昌院の一生を見ているとしみじみと感じてしまうのである。(文・写真:『東京のパワースポットを歩く』・鈴子)

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