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孫正義氏を変えたロケット・ササキ

孫正義氏を変えたロケット・ササキ
2017/7/3 nk を抜粋編集


 2017年5月20日、サウジアラビアの地元メディアが流したワンシーンは、日米の外交関係者や経済人に衝撃を与えた。

 サウジの首都リヤドにある宮殿。豪壮なじゅうたんと白い壁に囲まれた大広間の真ん中に米大統領のトランプとサウジ国王のサルマンが腰掛けている。両サイドの壁際には民族衣装のサウジ政府高官と、米国から訪問した関係者がそれぞれ分かれて陣取る。

 米国側から歩み出たのが、ソフトバンクグループ社長の孫正義だった。国王の前に歩み出ると、サウジ政府高官と書簡を交わして握手した。その様子を見守るトランプが満面の笑顔でなにやら声をかけている。孫との蜜月関係を物語るのに十分な映像だった。

 孫がサウジを口説き落として立ち上げた10兆円ファンドのための合意文書交換セレモニーだが、米国とサウジの首脳会談の席上に日本企業のトップが同席するのは異例だ。

 今では世界中で「会えない人物はいない」ともいわれる孫。その人脈を築く原点は、ある人物との出会いだった。

■「この若者は私が保証します」

 2014年4月28日、孫をはじめソフトバンク幹部が東京・元赤坂のレストラン「東洋軒」に集まった。一堂が出迎えたのはこの年、数えで100歳となる男だった。

 佐々木正。かつてシャープ副社長としてカシオ計算機との「電卓戦争」を指揮しロケット・ササキの異名で知られる。この日は孫が主催した佐々木の「百寿を祝う会」だった。挨拶に立った孫が語りかけた。

 「もしバークレーの一学生の僕が佐々木先生に巡りあっていなかったら、ここにいるソフトバンクの幹部は誰もいません。感無量です」。色紙を取り出し筆を走らせる。「すべては先生との出会いから始まりました。ありがとうございます」。自ら書き込んだ感謝の言葉を読み上げると、孫の目から涙がこぼれた。

 孫が佐々木と出会ったのは21歳の夏だった。米カリフォルニア大学バークレー校の学生だった孫は、夏休みを利用して一時帰国し、同大学の教授陣と開発した電子翻訳機を売って回った。結果は散々。だが最後に面会にこぎつけた佐々木が、熱意に打たれて契約に同意した。孫に起業のきっかけを与えた佐々木のことを、孫は今も「僕にとっては仏様のような恩人」と話す。

 孫は帰国して1981年に日本ソフトバンク(当時)を創設したが、すぐに資金繰りに窮した。孫は第一勧業銀行(現みずほフィナンシャルグループ)に1億円の無担保融資を願い出たが、実績がないため渋られた。それを聞いた佐々木は旧知の第一勧銀役員に電話を入れた。

 「孫正義という若者は私が保証します。私からも融資をお願いしたい。私の退職金と自宅を担保にしていただいてもかまいません」

 この電話が孫の未来を開いた。



■「同志的結合」という言葉

 日本ソフトバンクは創業から5年、また危機に直面する。1986年のことだ。20人ほどの幹部陣が離反して日本ソフトバンクのコピー会社をつくったのだった。顧客データをそっくりそのまま持って行かれて売り上げが激減した。これまであまり語られたことのない事実だ。

 「裏切り者」。自らのもとを去った者たちをののしる孫に、佐々木が語りかけた。

 「孫君ね、世の中には色々な結合があるだろ。人と人をつなぐ結合だ。その中でも同志的結合に勝る強い結合はないんだよ」

 このひと言で、孫は考え方を変えた。今では、「志を共有できなかったということです。去られた方も十分な魅力や引力を持っていなかった」と反省する。それ以来、同志的結合は孫の経営哲学の根幹となっている。


 孫は翌年からこの哲学を実践に移した。孫にはどうしても会いたい人物がいた。米マイクロソフトを創業したビル・ゲイツだ。

 2歳上のゲイツは孫にとっては仰ぎ見る存在だった。孫が日本ソフトバンクを設立したのは、コンピューターの主役がハードからソフトに変わる潮流を読んだからだが、その大転換を起こしたのは、ウィンドウズでコンピューターを家庭に持ち込んだゲイツだ

 87年7月、孫は自社で発行する雑誌のインタビューのため、ゲイツがいる米シアトルに飛んだ。面会のアポイントが確定したのは現地に到着してからだった。インタビューの冒頭、机に置かれていた「PC WEEK」という雑誌を手に取ったゲイツが孫に言った。「これを毎号読んだ方がいいよ」

■同志がまた同志を呼ぶ連鎖

 あのゲイツがそこまで言うならと、孫は株式を店頭公開して資金をつくり、その雑誌の発行元である米ジフ・デービスから出版部門を買収する。そのジフ社の社長に「投資先を1社だけ選ぶならどこがいいか」と聞いたところ、推薦されたのが生まれたばかりの米ヤフーだった。ヤフー共同創業者のジェリー・ヤンと意気投合した孫は早速、投資を決めた。

 そのヤンが「発見」したのが中国アリババ集団のジャック・マーこと馬雲だ。シリコンバレーで頭角を現したヤンが訪中して万里の長城を観光した際、中国政府が差配したガイド役がマーだった。孫は1999年末に初めて会ったマーの才能を感じ取り、わずか5分でアリババへの出資を決めた。「彼の目にカリスマを感じた」と振り返る。


 実は盟友となった米アップル共同創業者の故スティーブ・ジョブズもまた、佐々木に教えを請うた人物だ。1985年、ジョブズは自ら立ち上げたアップルを追い出された。するとノーアポで東京・市谷にあったシャープのオフィスに佐々木を訪れた。ボサボサの長髪でTシャツにジーンズ姿のジョブズは「アイデアを求めて会いに来た」と佐々木に切り出した。

 後年、孫は米シリコンバレーでジョブズと巡りあう。やはり同志と認めた米オラクル創業者ラリー・エリソンが孫にジョブズを引き合わせた。日本庭園を模したエリソンの自宅で、3人はIT(情報技術)の未来を語り合った。同じ人物から学んだ孫とジョブズは、互いをライバルと認め合う存在となる。

 孫が同志と見込んだ起業家がまた新たな同志を呼び込む――。孫は現在、新興企業への投資を通じて新たな同志を探し求めているが、この連鎖は投資リターンを求めるだけの「金銭的結合」では生み出せないというのが孫の考えだ。こうして築いた起業家とのつながりは、孫に言わせれば「バランスシートには載らない資産」なのだ。


■巨大な財布、巨大なリスク

 孫流投資は成功ばかりではない。2000年に崩壊したITバブルはソフトバンクも直撃し、株価はざっと100分の1に落ち込んだ。孫は5000億円規模の投資案件を損切りすることを迫られた。

 「かっこ悪いですよね。もう自信喪失ですよ」と孫は振り返る。「それまで満面の笑みで寄ってきた人たちが、手のひらを返したようにまるで犯罪者を見るような目で僕を見るんだ。内心では『くそー』と思いましたね」

 相次ぐ大型M&A(合併・買収)の結果、ソフトバンクの有利子負債は14兆円を超えた。東京都やスウェーデンの年間予算に相当する規模だ。さすがにこれ以上は借金を増やせない。

 「だが、そんな小さな構えでいいのか。借金を気にすることなく同志的結合を求め続けるにはどうすれば良いだろうか」。昨年初めころから、自問自答してきた孫が行き着いたのがサウジとの10兆円ファンドだった。ソフトバンクの負担は3兆円ほど。しかも、そのうちの1兆円は買収したばかりの英アーム・ホールディングス株の一部を差し出すことでまかなう。

 世界のベンチャーキャピタルの年間投資総額を優に上回る巨大な財布を手に入れた。一方で、ファンドはソフトバンクの連結対象となり、投資の結果次第で自社の業績が大きく左右される。孫はこれまで世界の事業会社が抱えたことのない巨大なリスクを背負い込んだことになる。

◇ ◇ ◇

 佐々木は今も健在だ。記者は昨年11月、佐々木が暮らす兵庫県の施設を訪れた。1時間半もの間、質問に答えてくれたが、佐々木は当時すでに101歳の高齢だ。記憶が行き来するようで会話が成り立たないことも多かった。


 別れ際、佐々木は一冊の雑誌を取り出した。孫のアーム買収を特集した「日経エレクトロニクス」だった。表紙に映る孫の写真に目を落として少し黙り込んだ後、つぶやいた。

 「孫君はまだまだ戦っていくんだ。あの頃となんにも変わっていないな」

 101歳の佐々木の目には、孫を育てた誇りが映っていた。39年前に初めて会った日に「この若者の踏み台になってもいい」とまで思ったという風変わりな男の挑戦を、これからも見つめる。

=敬称略

(杉本貴司)

 

【cf.】
孫正義 300年王国への野望

著者 : 杉本 貴司
出版 : 日本経済新聞出版社
価格 : 1,944円 (税込み)



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