松平斉典は「川越百万灯祭り」、「知恵伊豆」の松平信綱は 「川越まつり」の2代祭りで有名です。
毎年7月最後の土・日の「川越百万灯祭り」は、松平斉典(なりつね)の 遺徳をしのぶ祭事にはじまります。
松平斉典(なりつね)は、
・好学の名君、
・川越藩の江戸湾警備、
・川越城本丸御殿造営
で知られています。35年間にわたり最も長く川越藩をおさめました。
川越藩は、282年間を8家21人の藩主がおさめました。
松平斉典(なりつね)は、越前松平家(えちぜん まつだいらけ)川越藩4代藩主です。
越前松平家川越藩は、1767年から100年間、7代にわたって、藩主をつとめました。
川越・喜多院の墓所には、 越前松平家川越藩主5人が眠っています。
松平斉典(なりつね)は、 教育にも力を注ぎ、藩校・博喩堂(はくゆどう)を、1827年に開講し、「好学の名君」とよばれました。
藩医・保岡嶺南(やすおか れいなん)を教授職に迎えました。
江戸藩邸の上屋敷(現・ホテルオークラ)と川越城内(現・市役所)に15歳から40歳までの全ての藩士に勉学を義務づけました。
松平斉典は、川越城本丸御殿も造営しました。本丸御殿は16棟の規模を誇りました。
三方領地替え(さんぽう りょうちがえ)について
越前松平家川越藩の家系は、転封を繰り返し借財が多く、「引っ越し大名」とよばれていました。
一代で5回の転封を命じられた藩主もいました。
転封のたびに多額の費用がかさみます。
幕府は、 軍事面でも親藩の川越藩を重要視していました。川越藩は、江戸湾警備も命ぜられ、借財累積のもとになりました。
この莫大な出費に嫌気して斉典は、転封工作を始めたとも言われています。
川越藩は、ペリー再来航の際には、述べ6万人もの藩兵を配置する負担も生じました。
豪商の横田五郎兵衛も、藩への協力で、破産状態になりました。
川越藩では、ペリーが再来航したときには、述べ6万人もの藩兵を配置する負担も生じました。
松平斉典(なりつね)は、裕福な藩への転封を目論みました。
松平斉典(なりつね)は、11代将軍・徳川家斉(いえなり)から「斉(なり)」の字を賜っています。また、徳川家斉の子を養子にもらい受けていました。
1840年、「三方領地替え」の幕命が出されます。
武蔵・川越藩を山形・庄内藩へ、
山形・庄内藩を越後・長岡藩へ、
しかし、庄内藩の領民の反対運動もあり、また11代将軍・徳川家斉(いえなり)の逝去もあり、「三方領地替え」は沙汰止みとなりました。武蔵・川越藩を山形・庄内藩へ、
山形・庄内藩を越後・長岡藩へ、
越後・長岡藩を武蔵・川越藩へ、
移封の幕命です。
越前松平家 川越藩4代藩主 松平斉典(なりつね)は、毎年「川越百万灯祭り」のたびに川越藩の名君と記憶されるでしょう。
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