渋沢栄一の後添(のちぞ)い 兼子(かねこ)は、米国での夫をサポート。川越出身 【第2版】
渋沢兼子(かねこ) |
・1852年~1934年。65歳
渋沢栄一の千代は、5人の子を生みましたが、コレラで42歳で早世しました。
渋沢栄一は、42歳の時に妻に先立たれ、
後添(のちぞ)いに川越の豪商 伊藤八兵衛の娘 兼子(かねこ)をもらいうけました。伊藤八兵衛は、川越の小ケ谷(おがや)出身で、 江戸一の大富限者と称されていました。す。
川越出身の妻 兼子(かねこ)は、栄一の渡米に同行し、積極的に渋沢栄一をサポートしました。
渋沢栄一団長率いる商工会議所50名の「渡米実業団」の一員として 活躍しました。
ルーズベルト大統領との会見にも立ち会いました。
栄一・兼子は、五人の子に恵まれました。
栄一・兼子の 次男は、石川島飛行機社長です。
3男は、石川島飛行機社長です。
3女は、第一銀行頭取に嫁ぎました。
4男秀雄は、田園調布を開発しました。 宝塚会長、東宝会長で、随筆家です。 『父 渋沢栄一』をあらわしました。 秀雄の長男はアコーディオン奏者です。3女は小説家です。
兼子は、夫については、「うまいこと論語を見つけたわね。
キリスト教の聖書だったら教えは守れないでしょうから」と思ってたに違いありません。
当時は、大名家をみても、男子を産み「家」を発展させていくことが当主の大事な役目でした。
渋沢栄一は、61歳より30年間北区の飛鳥山(あすかやま)に住みました。
渋沢栄一さんは、川越にすんでいたと言う話も聞きますが、住んではいないと言う方が、多いようですが、どちらなんでしょうかね。
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