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飯能戦争で自決の渋沢平九郎

飯能戦争で自決の渋沢平九郎

1868年、薩長の新政府軍に破れた15代 徳川慶喜(よしのぶ)は、 京から江戸に戻ります。
慶喜の幕臣たちは、主君の汚名をすすごうと「彰義隊(しょうぎたい)」を結成します。
渋沢栄一のいとこの渋沢成一郎が彰義隊の頭取になりました。
しかし栄一の仲間たちは、
内部対立で、彰義隊から離脱し「振武軍(しんぶぐん)」を結成します。

振武軍には、渋沢栄一の学問の師 尾高惇忠(おだか じゅんちゅう)や渋沢平九郎など栄一の縁者も参加していました。
5月早朝、川越城を出発した政府軍 官軍が、
振武軍への総攻撃をはじめました。
官軍の放った砲弾は、飯能の能仁寺本堂に命中し、 振武軍は敗走しました。

官軍の中には川越藩士も参戦していました。
飯能戦争は「県民同士の戦い」と揶揄されます。 飯能戦争は、戊辰戦争の局地戦です。

ところで、1867年、渋沢栄一は、渡欧にあたって、 妻 千代の弟 平九郎を見立て養子にしました。
自分の身に何か起きた時をおもんばかって、 平九郎を相続者、養子にしました。
渋沢家の相続者は、栄一→平九郎 となりました。

渋沢平九郎は、彰義隊を経て、振武軍に加わりました。

渋沢平九郎は、飯能戦争の折、飯能の顔振峠から 越生(おごせ)へ逃げてきました。
しかし官軍に取り囲まれ、奮闘後、路傍で自決しました。 22歳でした。
村人たちは、壮絶な最後を「だっそ様(脱走の勇士)」とたたえました。
渋沢栄一は、5回飯能に来ています。
後年、渋沢栄一は、渋沢平九郎戦死の演劇を帝国劇場で上演しました。

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