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北条政子。源頼朝の妻。幕府の実権を握り、16代まで永続させました。武家社会の女の生き方の鏡

 北条政子。源頼朝の妻。幕府の実権を握り、16代まで永続させました。武家社会の女の生き方の鏡
 
・1157年。伊豆~1225年8月16日没。69歳。

 頼朝の亡き後、幕府の実権を握り、 16代まで永続させました。

武家社会での女の生き方を初めて示しました。
平安時代の恋愛ばかりの世とは違いました。

伊豆の国の有力者 北条時政の長女として生まれました。

罪人となった源頼朝を北条時政が監視しますが、 やがて頼朝と政子は恋に落ち、結婚しました。


鎌倉時代は一夫多妻制の時代で、子孫繁栄が最大の功績です。 しかし、北条政子はそれを許さない女性でした。 その時代には、「悪女」でした。
なお、
源 朝臣 頼朝は、源(= 氏・うじ)+朝臣(= 姓・かばね)+頼朝(= 個人名
「源 の 頼朝」です。

北条 政子は、
北条(=苗字 )+ 政子(個人名)で 「北条 (「の」なし)政子」です。
北条政子は長男 第2代 源頼家を伊豆の修善寺に幽閉してしまいました。
源頼家は、亡くなりました。

また父 時政を出家させ、政治から追放してしまいました。
2歳の将軍 実朝の後ろ盾となり、実権を握りました。

弟の北条義時(2代執権)、
その子 北条泰時(3代執権)とのチームワークも絶妙でした。  

出家して尼となっていた政子は「尼将軍」と呼ばれるようになりました。
才女で、尼将軍と呼ばれた北条政子は、 女性で初めて『貞観政要(じょうがん せいよう)』を熟読しました。 貞観政要は、政治を行う者の必読書です。 唐の太宗(たいそう)がまとめたものです。

1221年の承久(じょうきゅう)の乱のとき、 将軍家の恩を説いて、部下を京都に攻せめ入らせました。 「頼朝公から受けた恩は、山よりも高く海よりも深い。…。悪いのは、後鳥羽上皇ではなくまわりの人間です。…。頼朝公の幕府を守り抜きましょう」。 北条政子の名言で御家人は幕府につく決心をしました。

北条泰時(3代執権)が京へ向かい、後鳥羽上皇軍を破りました。 後鳥羽上皇、順徳上皇、土御門(つちみかど)上皇を島流しにしてしまいました。
これ以降、皇位を誰にするかは幕府が管理するようになりました。


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