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2021/11/24 tenkai

 

※  天海  ビジュアル  画像控えです。

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川越観光案内    第29回     川越の先人 その9 天海


徳川家康の知恵袋 天海僧正は、川越に関係の深い人物です。

郷土の歴史になじんでいただく為に、中高生、若い人にも、 「わかりやすく」記します。

 

1) 天海の養生訓。勤行(ごんぎょう)・歩く・粗食・学習
2 天海は薬草にも通じ、家康の深い信任を得る 

3 天海は、織田信長による比叡山焼き打ちを逃れ、武田信玄の元へ

4 江戸を守る5寺社は、天海と川越が関係    

5 天海は「家康=北極星」により東照宮信仰を確立 


NPO法人 武蔵観研  会長   桑  原  政  則


1 天海の養生訓。勤行・歩く・粗食・学習

天海は、徳川家康の知恵袋でした。2代 秀忠、3代 家光にも重用されました。108歳まで長生きしました。長寿のおかげで多くの幸運にめぐまれました。260年のパクス・トクガワーナ(徳川の平和)の知恵袋となり、平和な国づくりに貢献しました。


天海は、1536年 室町戦国期(1467年~1573年)に福島 会津に生まれました。 名族 蘆名(あしな)の出です。生まれつき頑健で、身長も180センチ以上あったようです。 戦乱で父を奪われ、11歳で出家します。

天海肖像画。会津美里町公民館 ※慈眼大師 : 慈(いつく)しみの眼(まなこ)が


天海が毎日、実行していたことがあります。
勤行・歩く・粗食・学習です。

勤行。朝夕、大声での勤行(ごんぎょう。お経をよむこと)、 大声での発声が健康の もとでした。

粗食。少食、粗食が当たり前でした(いまなら、節食)。徳川家康、2代 秀忠、3代 家光にも 少食を進めました。

歩く。 天海は健脚でした。流浪の学問僧で学問を求めて、日本中を徒歩で巡っています。 会津、宇都宮、比叡山、奈良、足利学校(25歳から4年間)、桐生、川越の喜多院(1590年、 54歳)、…。  

学習。毎日学習にはげみました。50歳近くまで留学僧として 学びの旅を続けます。儒学、易学、天文学、国学、医学、兵学など幅広い学問を習得しました。天寿を全うする108歳まで学習を 続行します。脳が毎日活性化されたでしょう。
 


天海が、大御所(おおごしょ) 徳川家康に贈った長生きの心得があります。

 < 気は長く    勤めはかたく    色うすく 

食ほそうして  心ひろかれ> 

 ( 気は長くもって、しっかり働きましょう。色(欲望)は低く抑えましょう。

少食を旨としましょう。心は広くもちましょう。)


1589年、天海の蘆名氏は伊達政宗に「摺上原(すりあげはら)の戦い」で大敗し滅びます。 伊達政宗は、蘆名を滅ぼしたことで奥州の覇者へ登り詰めます。このとき天海は54歳、 政宗はわずか23歳です。伊達政宗から天海僧正への書状が残されています。

 



伊達政宗から天海僧正への書状(2011年7月  会津美里 龍興寺にて。天海、出家の寺)



伊達政宗から天海への書状    

「天海殿にぜひともご面談したかったのですが、先客があるとのことで、お疲れの ようですから、今回はこれで帰ります。」

※ 龍興寺は、天海が出家した寺です。2回の火災にもかかわらず、貴重文書を残しています。 「常に枕もとに置いて置く」(住職)のが決まりです。

 

  2天海は薬草にも通じ、家康の深い信任を得る  

 

 天海は薬草に通じていました。医者や古老に効能を聞きながら、自分に試し、結果が 良ければひとにも塗ったり、服用してもらいました。いろいろな薬物に通じることで、 天海はいっぱしの良医になっていきました。天海が徳川家康の深い信任を得ることができた のは、薬物の知識があったからでもあります。

徳川家康は、薬事書などもよく読み、薬草を栽培しました。薬は自分で調合しました。駿府城では、4000坪の「駿府 御薬園(おやくえん)」で薬草を栽培しました。幕府は、3代 家光の時代には、小石川に小石川御薬園をつくりました。世界でも有数の歴史を持つ植物園で、薬草の栽培や研究をおこなっていました。

徳川家康は、8歳から19歳までの12年間、今川義元の人質でした。美食家の今川義元を反面教師にしました。また豊臣秀吉の生活が放縦で、病に倒れるのを見ました。 「最後に勝利をにぎるのは長寿者」であるとし、養生にはげみました。


暴飲暴食を避け、鷹狩り、刀術、槍術、弓術、馬術、鉄砲、水練に興じました。運動と 気分転換を兼ねた鷹狩りを特に好みました。早起きして鷹を放ち、馬で山野を駆けめぐり ました。川越方面にもたびたび訪れています。美食をさけ、玄米食に大豆味噌を中心とする 食事を旨としました。



今川義元       1519、1560、42年

武田信玄  1521、1573、53年

上杉謙信 1530、1578、49年

織田信長 1534、1582、49年 

天海  1536、1643、108年

豊臣秀吉 1537、1598、62年

徳川家康 1543、1616、74年

伊達政宗 1567、1636、70年

生没年 グラフ    天海  徳川家康  武田信玄  織田信長  豊臣秀吉

(グラフはこれから)

川越 喜多院の天海像


3天海は、織田信長の比叡山焼き打ちを逃れ、武田信玄の元へ

  

1571年 35歳の時、流浪の学問僧 天海は、学習を続けるために比叡山への入山を試みました。 しかし、比叡山が織田信長により焼き打ちされ、果たせませんでした。

 

天海は、 明智光秀の世話で、比叡山の学僧らと共に、武田信玄の元に身を寄せます。

武田信玄は、僧侶でした。民政を重んじた徳政の人、書物好きの文人でした。


天海は、武田信玄の元で、天台宗について講義したりしました。武田信玄は、天海より 15歳年上で、天台宗の権大僧正(ごんだいそうじょう。大僧正の次の位)でした。 徳川家康は、三方ヶ原の戦いで武田信玄に破れました。しかし20歳以上年上の武田信玄を、 徳川家康は心酔します。


武田信玄は、甲州、信州、駿河、上野(こうずけ)を領する天下一の有力者でした。

今川義元上杉謙信織田信長も消えたあとには、武田信玄が上洛して幕府を再建するだろう、と衆目は見ていました。 しかし、武田信玄は、目的途上で病没します。53年の生涯でした。


天海は、戦乱の世にあって、剣の力ではなく仏法の力で、泰平浄土を願いました。しかし、 仏法だけでは泰平は訪れませんでした。


1607年、家康の命で、5年間  比叡山の南光坊に住して、織田信長の焼き討ち後の延暦寺再興に 関わリます。 論湿寒貧(ろんしつかんぴん)の延暦寺生活が始まります。

「論」は、仏の研究。「湿」は、夏は琵琶湖からの湿気で蒸し暑いこと。「寒」は、 比叡山名物の寒さで、お堂はすきま風が入り放題。「貧」は、清貧の生活。命を絶たれ ものもいました。ここで天海は、延暦寺中興の祖と言われる功績をあげました。 「南光坊 天海」といわれるゆえんです。


 天海は、このころみずからの「山王一実神道(さんのう いちじつ しんとう)」により、 徳川家康を泰平浄土の神にする腹案を得ます。天海は、呪術や占いにも長けており、また 足利学校で学んだ豊富な学識とすぐれた討論の能力がありました。


1608年73歳の時、 駿府城で家康に「山王一実神道」を披露しました。これが気に入られて、 幕府に重用されます。家康は天海の説話を好み、教養や人柄に感銘し「天海僧正は人の中の 仏なり、おしむらくは相知ることの遅かりつるを」と嘆息しました。家康は66歳でした。



4江戸を守る5寺社は、天海と川越が関係    

 

 江戸城は、鬼門軸にある5寺社によって守られていました。江戸を守る寺社には、天海と 川越が何らかの意味で関係しています。5寺社は、鬼門(北東=ウシトラ )と裏鬼門 (なんせい=ヒツジサル)に位置し、江戸城を守っています。 「川越は江戸の母」と よばれるのは、このためです。

江戸を守る5寺社

  「鬼門」は当時は迷信ではなく、科学でした。陰陽寮(おんようりょう。占い・天文・ 時・暦を担当の役所)が廃止されたのは、明治はじめ1870年になってからでした。  

京都では、比叡山が鬼門封じの主役です。京都の会社、施設など1000箇所以上が、いまでも、鬼門封じをしています。玉砂利を敷いたり、ヒイラギ、南天を植えています。

  

寛永寺 は、徳川幕府が建立し、川越・喜多院住職であった天海僧正が開山した寺院です。 山号は東叡山(とうえいざん)です。「東叡山」の山号は、喜多院から移されたものです。 「東の比叡山」を意味します。比叡山延暦寺は「延暦」年間に創建されました。東叡山寛永寺 は「寛永」年間に創建されました。

 

浅草寺(せんそうじ)は、江戸で最古の天台宗のお寺です。 1590年、徳川家康は江戸に入府しました。天海の進言があり、浅草寺は祈願所に定められ、 あつい庇護を受けました。

 

神田明神は、天海が大手町から、今の外神田に移したものです。

 

赤坂山王 日枝神社(あかさか さんのう ひえ じんじゃ)は、川越・日枝神社から太田道灌が 分霊(のれん分け)したものです。

 

1590年徳川家康は増上寺を菩提寺(ぼだいじ、先祖の墓のある寺)にしました。

増上寺は、ひところは3000人以上の学僧が学んでいました。 川越・蓮馨寺(れんけいじ)出身の増上寺 第12代目法主(ほっす)・存応(ぞんのう)が、 徳川家康にすすめたものです。存応は、増上寺中興の祖といわれます。


5 天海は「家康=北極星」により東照宮信仰を確立 



 

1616年、徳川家康が他界します(ルネサンスを代表するイギリスの劇作家シェイクスピア他界も同年です)。天海は、徳川家康の永眠にあたっては、徳川家康を東照大権現 (とうしょう だいごんげん) にしました。権現とは、「仮に(権)、この世に現れている 神」のことです。

天海は、伊勢神宮の天照大神(あまてらす おおみかみ)を念頭に、徳川家康が東国の天照 (あまてらす)となることにし、「東照大権現」にしました。


日光山の貫主(かんじゅ)でもあった 天海は、神も仏も同じものだとする山王一実神道 (さんのう いちじつ しんとう)という敬神崇仏の「天海教」により、家康を北極星と 一体化するしかけを施しました。なお、神事や宗教は、秘儀性が高く、外部にあかさない 深秘(じんぴ)があります。

 

天海は、現実の江戸の世は、家康神を中心に動いていると見立てました。 北極星は宇宙の中心です。無数の星は北極星をめぐります。日光東照宮は江戸城の北に 位置します。天子の場所は、北にあるものです。(cf. 「天子南面す」)。 江戸の街からは日光の男体山(なんたいさん)の真上に北極星が輝きます。

 

日光には、太陽を喚起する縁起文字が続きます(日明門。東大権現 )。家康は、東照大権現という神となり、そして北極星となり、 南の江戸を永遠に守ることになります。

 

こうして家康を神とする東照宮信仰が確立しました。江戸時代260年の泰平の秘密は、

徳川家康を神にしたことにもあります。神格を得ることは、家康自身が望んでいたことです。 また幕府も人々ものぞみました。


家康は父が17歳、母が15歳の時に生まれました。母とは3歳の時に生き別れにさせられ ました。6歳から19歳まで14年間、織田氏と今川氏の人質にされました。織田信長の命に より長男を切腹させました。60年間を、戦場で戦った家康は、泰平を熱望していました。


応仁の乱(1467)から大坂夏の陣(1615年)まで150年続いた軍事衝突を、家康は 「元和偃武(げんな えんぶ)」の宣言で終了に追い込みました。

「元和偃武」とは、あたらしい「元和の時代に、戦乱をやめる」ことでした。 武家諸法度(ぶけしょ はっと)という基本法が制定し、幕府、朝廷、寺社のもめごとを なくしました。こうして近代社会への用意を整えました。(政情不安が続きいくつもの部族社会からなるアフガニスタン  を参照 )。明治になり西欧と対等につきあえることができたのも、怪物豊臣秀吉を抑え、「元和偃武(げんな えんぶ)」により日本を統一した徳川家康によること大です。  

幕末の戊辰戦争(1868- 1869)でも、 家康の東照宮は焼かれませんでした。徳川家では、家康だけが神で、あとの将軍は仏です。家康が「神君」とよばれるのは、神であり、君主であるからです。

こうして、世界でもまれな260年のパクス・トクガワーナ(徳川の平和)が、招来されました。有名なパクス・ロマーナ(ローマの平和)は、200年です。

 

 

【後記】

石山貞夫(川越市文化財保護協会副会長)氏にご協力をいただきました。

桑原政則    NPO法人武蔵観研会長。「川越みがきの会」(川越市市制施行100周年 講演会  2022/2/15。2022/7/19。2022/11/15)武蔵観研主催)。小江戸川越観光親善大使。東京外国語 大学修士。京都大学派遣東南アジア留学生。タイ国チュラロンコン大学客員教員。東京国際 大学教授(地域研究:東南アジア、沖縄、川越)。「Twitter:@桑原政則」「Facebook: @桑原政則」  連絡先:musashikanken@gmail.com


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