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北条政子。源頼朝の死後、尼 将軍として、鎌倉幕府を支える。8月16日没

 北条政子。源頼朝の死後、尼 将軍として、鎌倉幕府を支える。8月16日没

・1156年-1225年8月16日鎌倉。69歳

北条 政子は、
鎌倉幕府を守り抜いた日本史上初の女性リーダーです。


北条時政の娘です。
源頼朝が乱にやぶれて伊豆国に流されているときに結婚します。

源頼家、
源実朝(さねとも)と
女の子 大姫(おおひめ)、三幡(さんまん。乙姫)
を生みます。

頼朝の死後は
尼(出家した女性)になって、政治の実権をにぎり,
尼将軍といわれます。

頼朝の死後、
長男 頼家が将軍になります。

18歳の頼家は、政治を行うには若すぎるので、
政子は、13人の有力御家人の会議を通し、政治を行
うことにします。


これに不満をもった頼家が異常な行動をとります。
政子は父 時政と相談して、
頼家を伊豆の修禅寺にとじこめ
次男 実朝を将軍につけます。


長男 
頼家が修禅寺で殺され、
次男 実朝も殺されると、
政子は政治の実権を握ります。


こうして源氏の将軍 源頼朝、源頼家、源実朝は、
三代でとだえてしまいます。


幕府と朝廷が戦った承久(じょうきゅう) の乱(1221年)では、
御家人を集めて、
源頼朝の恩を説いて、
東国武士に京都を攻撃させ、大勝利にみちびきます。


政子の毅然としたよびかけによって、鎌倉幕府の土台は守られます。


政子は、
3代 実朝の死後は、事実上の将軍として幕府を指揮
ます。


政子の目標は、頼朝がつくった鎌倉幕府の土台を守り、支えることでした。




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政子の死後、三代目の執権・泰時(やすとき)が「御成敗式目」を定めます。
「成敗」は、“裁判”、「式目」は“決まり”です。
武士の裁判の基準となる法律です。

この法律は、武士の政治のよりどころとなりました。
頼朝が開き、政子たちが固めた武士の世は、700年続きます

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