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天海僧正 年表

喜多院の天海像
* 年齢は数え年表示です。
*印は、要チェック、要出典
和暦西暦換算表
:* <*  原本は秀丸に格納>

*     *     *
1536年、天文5年 (所伝)
福島県大沼郡会津美里町の高田で誕生。
長男。幼名は、兵太郎。
父は舩木。母は蘆名氏の娘。

1546年 11歳
実家の近所の龍興寺(りゅうこうじ)で出家、「隋風」と称します。3年間修行。
龍興寺は天台宗の円仁(えんにん)創建の古刹(こさつ、古い寺)。
円仁は、最澄の弟子で、最後の遣唐使。天台宗を完成させた世界的な偉人。

天台宗は仏教の力で国を導くという国家鎮護を信仰の核にしています。

1549年 14歳
宇都宮市の粉河寺(こかわでら、現・宝蔵寺、ほうぞうじ)の住職に弟子入り。
住職の皇舜は高僧。

1553年 18歳
天台宗の総本山、比叡山に入山、実全に師事、天台教学を学びます。
比叡山は、最澄が山を開いてから、円仁、円珍、良源、源信、良忍、法然、親鸞、一遍、栄西、道元、日蓮など各宗教の祖を生んだので、日本仏教の母とよばれています。またさまざまな芸能を生んだので、「山」といえば比叡山をさしました。

1556年
比叡山を下山。
大津の三井寺(みいでら、現・園城寺おんじょうじ)のに学びます。
奈良、興福寺などで学びます。林和成重に日本書紀を学びます。法相(ほっそう)、三輪を学びます。

1558年 23歳
実母病気のため、時会津へ帰省します。母は逝去。

1560年
栃木の足利学校に入り、4年間にわたり、儒学、漢学、易学、国学、経済学、天文学、医学、兵学を習得します。
天海は、粉河寺、三井寺、興福寺、足利学校と学業を続けます。

1564年
群馬県太田市世良田の善昌寺に学びます。

1571年 35歳
比叡山入山を試みますが、比叡山が織田信長により焼き打ちされ果たせませんでした。
天海は、 明智光秀の世話で、山門の学僧、衆徒と共に、武田信玄の元に身を寄せます。
武田信玄に請われ、山門の学僧と論議をしたり、天台宗について講義したりします。

1573年 
会津に戻り数年間(@@@)滞在。

1577年 42歳
蘆名氏の要請を受けて、群馬県太田市世良田の善昌寺(現・長楽寺)で5年間修行。天海は塔頭の住職に。

会津若松の黒川稲荷堂の別当(長官)をつとめます。(@年号、@年間)
このように若いときから、天海は流浪の学問僧でした。

1589年
蘆名氏が伊達政宗に攻められます。天海は蘆名盛重とともに白川に逃れます。1590年(?)蘆名盛重が常陸の江戸崎に移るのに従い、江戸崎不動尊院を再興し、住職も兼ねます。

1590年 55歳
関東有数の大寺院、川越の無量寿寺の北院(のちの喜多院)に移り、名を天海と改めます。
無量寿寺は円仁(えんにん)が創建しました。
天海が11歳で入った会津の龍興寺も円仁が創建したものでした。
無量寿寺は天台宗の関東総本山で580の寺を従えていました。
しかし、このころは北院も中院も荒れ果てており、南院は墓地を残すのみでした。
この年天海は、初めて江戸入りを果たした家康に多くの僧とともによばれました。(諸説あり)。
 <*このとき天海は不老長寿の秘薬として、川越の納豆を献上しました。家康は、この納豆をいたく気に入りました。や がてこの納豆は芝崎納豆とよばれ、江戸の名物になりました。いまも芝崎納豆は、神田神社の参道のみやげ店で販売しています。>
天海はいよいよ喜多院を根拠地に関東に根をおろします。

1599年 64歳
北院の住職・豪海没し、天海は無量寿寺北院の第27世住職に。
北院は、のちに喜多院になります。
天海の飛躍がはじまります。

1603年 68歳
天海、家康に登用されます。江戸幕府開幕の年です。

天海は神田神社に平将門(たいらのまさかど)の霊を大手町(旧称は芝崎)から今の地に分祀(ぶんし)し、江戸の町の守護神にしました。
家康が江戸幕府を開いた年です。
将門は朝廷に反抗した朝廷の敵でした。
天海は、民衆に人気のあった朝敵の将門を江戸の街を守る神様にすることにより、江戸の民が尊皇思想をもたないようにしくみました。

1607年  72歳
この年から5年間、家康の依頼で比叡山探題奉行となり、内輪もめの激しかった延暦寺の再興に着手します。
探題(たんだい)とは、宗教の最高の権威者のことです。
延暦寺の南光坊に住したことから、南光坊天海とよばれました。

<* 偶然ながら、喜多院第57世の塩入亮忠(りょうちゅう、1889-1971、大正大学学長)も南光坊住職をつとめた。>

家康は、喜多院を東の比叡山と言う意味で、東叡山という山号にしました。(@年号)

1608年
駿府城で家康に「山王一実神道(さんのういちじつしんとう)」を講義。
この後もしばしば家康に招かれ講義します。
山王一実神道とは@@@

<* 家康(1542-1616)の将軍としての在職期間は1603年から1605年までです。
その後は大御所として駿河に移転しました。
駿河は、京都と江戸の中間にあり、両方ににらみをきかせることが出来ました。>

1609年 74歳
後陽成天皇に天台宗について説きます。
天海は天台宗の権僧正(ごんのそうじょう)に。
権僧正は、僧正に次ぐ地位です。

1610年
天台宗の広学堅義(りゅうぎ)探題に選ばれます。
 <*  広学堅義探題とは@@@>

1611年
僧正に任じられ、後陽成天皇から毘沙門堂門室の号を賜ります。
 <* 毘沙門堂の重要さ@@@ >

家康は川越で放鷹(ほうよう)し、天海に面会し、寺領を寄贈します。
天海は、家康の指示で、川越の無量寿寺北院を喜多院と改め、喜多院を関東天台宗の総本山に定め、山号を東叡山に変更します。
家康は、関東天台宗の全権を喜多院に与えることにより、朝廷側の比叡山の勢力を関東に移すことにします。

1612年 77歳
家康は、川越の無量寿寺北院を喜多院と改め、寺領300石を寄進し、喜多院を関東天台宗の総本山に定め、山号を東叡山に変更します。
家康は、関東天台宗の全権を喜多院に与えることにより、朝廷側の比叡山の勢力を関東に移すことに成功します。
家康、喜多院に天海を訪問します。

1613年 78歳 家康は72歳  
天海、家康を駿府城に訪問し、天台論議法要をおこないます。
家康は喜多院に参詣し、天海の天台論議法要を聴聞します。

天海は、日光山の貫首(かんじゅ)も兼任し、日光山の復興にとりかかります。
貫首とは、天台宗の大寺の住職のことです。

喜多院で、家康と天海が仏法を談じます。
家康は、喜多院に寺領500石を寄進します。

1614年 79歳 家康は73歳
3月  天海、上洛します。
4月  御所で『延喜式』の書写を請います。
5月  天海、家康に天台血脈を授けます。
 <*  天台血脈とは@@@>
6月  9日、13日、17日、22日、25日、18日、天海は、駿府城で家康に天台論議法要をおこないます。
7月  3日、18日、21日、27日、駿府城で家康に天台論議法要をおこないます。
9月  9日、11日、15日、18日、21日、27日、駿府城で家康に天台論議法要などをおこないます。
11月  家康の大阪出陣に従って上洛し、家康のために御所の貴重書を借用します。また、天皇、上皇、家康間の講和につとめます。

1615年
1月 後陽成天皇より御衣、燕尾帽、鳩杖を賜る
 <* 鳩杖は、80歳を祝うときに贈られる。 >
6月 二条城で天台論議法要をおこない、家康が聴聞します。
10月 江戸城で天台論議法要をおこないます。

1616年 81歳  家康75歳
2月 家康の病気見舞いのため、駿府に急行します。
4月 藤堂高虎に受戒します。 <*  要説明>
4月2日 家康、駿府にて、本田正純、金地院崇伝(こんちいんすうでん)、天海の3人に遺言します。

家康は、自分の死に及び、病床に3人をよび遺言を残しました。
天海もその1人でした。
それほどまでに天海は頼りにされていました。
天海は、家康の神名を東照大権現(とうしょうだいごんげん)とつけました。
伊勢神宮の天照大神(あまてらすおおみかみ)を意識し、東国の天照(あまてらす)という意味で東照大権現にしたのでしょう。
東照大権現とは、家康が東照という神となって仮に(=権)あらわれている姿ということです。

家康をまつる東照宮は全国に100以上あります。
このうち、久能山東照宮、日光東照宮、および仙波東照宮を3大東照宮とよびます。
川越の仙波東照宮は、1617年、家康の亡きがらを久能山から日光へ運ぶ途中、わざわざ喜多院へ寄り法要が営まれたことにより建立されました。

4月17日 家康が死去します。
天海は葬儀の導師となり、静岡の久能山に埋葬します。
<* このとき家光は13歳。家光は生涯で9回川越を訪問しています。 >
6月 上洛し、家康の神号を奉請します。
7月 大僧正に任じられます。
9月 江戸にて家康の神号勅許を復命します。
10月 日光山にのぼり、東照社造営の縄張りをはじめます。

1617年 82歳
2月 家康に神号が朝廷から贈られます。神号は天海の主張通り「東昭大権現」でした。
 <*  天海と崇伝の論争 @@@>
天海は導師となり、家康の遺骸を久能山から日光へ移送。
3月15日
駿府の久能山にのぼり、徳川家康の霊柩をみずから掘り起こし、自分が住職をしている川越の喜多院で実に4日間もの大法要を営み、日光におさめました。
ご神霊の行列は1300人にも及びました。
葬儀の導師をつとめた天海はこのとき81歳でした。
今に続く日光の「千人武者行列」は、久能山から日光へのこのときの行列を模したものです。

天海は、伊勢神宮の天照大神(あまてらすおおみかみ)に対して、家康を「東照大権現(とうしょうだいごんげん)」としました。
東の天照(あまてらす)という意味です。権現とは「仮の姿」ということで、ほんとは仏様だが、いまは仮に「東の天照大神だ」ということです。
家康をまつる東照宮は、全国に130ほどあります。
 <*  東照宮の「宮」とは@@@ >。
川越の仙波東照宮が、日光東照宮、久能山東照宮とともに三大東照宮とよばれているのは遺骸のコースが、久能山→川越→日光だったからです。川越は日光からの気のエネルギーの中継所でもありました。

3月23日
川越の喜多院に到着。天海、4日間にわたり法要します。
以降、一行1300人は、川越から忍(おし)、館林、佐野、鹿沼、日光へ向かいます。

4月16日
家康の神像を正殿に安置します。
儀式は天海の「山王一実神道(さんのういちじつしんとう)」でおこないました。
<* 山王一実神道は、すべての神の教えは、日吉(ひえ)山王の教えに帰するという教えです。
つまり、すべての神々はみな山王の分身であるということです。
天海は山王権現を東照大権現に置き換えました。
山王一実神道の宗教上の目的は「現世安穏、後生善処」、つまり徳川幕藩体制と徳川家を支える支柱の確立でした。
徳川幕府の日本支配と国家安泰をめざしていました。
江戸期を通じ家康は神君とよばれました。
神(東照大権現)と君主が一体であることを意味します。
「神=君」という思想があったからこそ、戊辰戦争でも官軍は、寛永寺は焼いても、どの東照宮も攻撃しませんでした。 >

4月17日
ご祭礼をおこないます。

4月19日
法華曼荼羅供@@@

家康公霊柩行列の追跡と東照宮

1618年
4月 江戸城内に東照廟を勧請(かんじょう)し、導師をつとめます。

1619年
5月 上洛し、桓武天皇の廟塔を修造します。
8月 伏見城にて、天台論議法要をおこないます。
9月 尾張に東照権現を勧請します。

1620年
2月 花山院忠長の息子(のちの公海)を養子にします。
8月 水戸東照宮の縄張りをおこないます。

1621年
4月 水戸に東照権現を勧請し、導師をつとめます。
10月 紀伊に東照権現を勧請し、導師をつとめます。

1622年
4月 東照権現7回忌法要を日光山でおこないます。

1623年
7月 上洛します。

12月 上野に寛永寺の造営を始めます。

12月 最胤(さいいん?)法親王に書状にて、東叡山に皇子を迎えたいという希望を述べる。
@@@2代将軍秀忠(1578-1632、在職1605-1623)死去。
家光(1604-1651。在職1623-1651)が後を継ぐ。
<* 天海は、秀忠、家光の政治顧問格でした。 >

1625年 90歳
天海は江戸城の鬼門封じのために上野に寛永寺を建て、将軍家の菩提寺にしました。
山号を喜多院から移し東叡山とし、関東天台宗総本山にします。
喜多院の山号は以前の星野山にもどしました。

比叡山延暦寺は「延暦時代」に建てられました。
それに対抗して、「寛永時代」に建てたので寛永寺にしました。
また東叡山(とうえいざん)という喜多院の山号を寛永寺に譲りました。
東叡山は、関東天台宗の総本山です。
東叡山とは、東(関東)の比叡山という意味です。

今の上野公園も含む広大な敷地を保有していました。
朝廷側の比叡山は全国を支配していましたが、関東の580ほどの寺社は東叡山寛永寺が治めるようになりました。

京都御所を仏教面では比叡山が守り、比叡山を神道面で日吉神社が守っています。
江戸では、寛永寺、神田神社が鬼門を封じ、増上寺、日枝神社が裏鬼門を封じるようにしました。
 <*  図解>

天海はまた「家康=北極星」のしかけを施しました。
日光東照宮は江戸城の真北に位置します。
江戸の街からは日光の男体山(なんたいさん)が見え、男体山の真上に北極星が輝きます。
北極星は宇宙を支配する神で、無数の星が北極星をめぐります。
家康は、神となり、江戸を守ることになります。
「北極星=家康」のしかけをつくったのが天海です。

徳川家では、家康だけが神で、あとの将軍は仏です。
家康が「神君」とよばれるのは、神であり、君主であるからです。
天海は、家康を「東昭大権現(とうしょうだいごんげん)」という神様にし、250年以上にわたり徳川家の安泰をはかり、日本に平和をもたらしました。世界史上希有なことです。

2月24日 川越・三芳野神社の遷宮の導師をつとめます。

7月 徳川家光が日光山を参詣します。法会(ほうえ)をとりおこないます。

1626年
上洛し、宮中で論議法要をつとめます。

8月 公海に京都・毘沙門堂門室をゆずります。

1627年
9月 上野に東照権現を勧請、導師をつとめます。

1628年
南禅寺金地院(こんちいん)に東照宮を建立します。

4月  日光山で東照大権現13回忌の導師をつとめます。

1632年  97歳
4月 日光山で東照大権現17回忌の導師をつとめます。
徳川家光も日光登山をおこないます。

7月 沢庵の赦免を乞い、許されます。

1633年
8月  二の丸東照宮完成し、遷宮を執務します。

1634年
6月  上洛します。

閏7月 比叡山坂本東照宮の正遷宮をすすめます。

10月  比叡山諸堂の復旧に着手します。

1635年
徳川家光より東照権現縁起の撰述の委嘱を受けます。

5月 日光山にのぼり東照大権現仮殿遷宮の儀をつとめます。

6月 江戸城・紅葉山東照宮の祭祀をつとめます。

1636年 101歳
4月 東照社の大造替完成。東照大権現21回忌の導師をつとめます。
『東照権現縁起(真名本)』上巻が完成します。

1637年  102歳
寛永寺において『天海版 一切経』を活版印刷する大事業を計画します。
一切経とは、仏教経典の全集で、大蔵経(だいぞうきょう)ともよばれます。
12年後に完成します。全6323巻です。

1638年 103歳
川越大火で、喜多院が全焼します。

天海を崇敬していた家光は、ただちに喜多院の再建にとりかかります。
家光は、江戸城から大切にしていた「家光誕生の間」「春日局(かすがのつぼね)化粧の間」を移築します。
これらは、江戸城の唯一の遺構です。
春日局は家光の乳母で、家光を将軍に押し立てた立役者です。

1640年
『東照宮権現縁起絵巻(仮名本)』全5巻が完成します。
『東照権現縁起(真名本)』中巻、下巻が完成します。

4月 東照大権現25回忌、日光東照社で導師をつとめます。

1641年
7月 日光山奥院石造宝塔が完成します。

1643年10月2日  死去   108歳  
5月 日光山に相輪橖(そうりんとう)を造立します。

9月28日 五か条からなる遺言を述べます。


 五か条の遺言
1 東照大権現の神威を増すこと。
2 天台宗を繁栄させること。
3 天海の後継者には、親王をむかえること。
4 京都山科の毘沙門堂の門室を再興すること。
5 天皇の命に違反する罪で配流された人々の赦免をおこなうこと。


10月2日 天海、寛永寺で死去します。
数えでは108歳です。
徳川家康と同じく日光に埋葬されました。
日光の天海蔵には、天海の蔵書1万冊が収められています。
慈眼大師(じげんだいし)の追号が朝廷から贈られました。
この追号(ついごう)は、天台宗では5人目700年ぶりの出来ごとでした。

10月17日 天海の柩が江戸・寛永寺から日光山・大黒山の慈眼堂に埋葬されます。
家光の大猷院(だいゆういん)が、近くにあります。   <*  【画像】>
公海が天海を後継します。

1644年
10月 日光山、東叡山、比叡山・坂本に天海の御影堂(みえいどう)が創建されます。

1645年
日光東照社を東照宮にすることが宣下されます。
 <*  これ以降、東照宮といえば、日光の東照宮を指すことになります。
誤解を避けるときは、日光東照宮と記します。>

1646年
3月 日光東照宮の例祭に朝廷から奉幣使(ほうへいし)が派遣されます。
 <*  以降、伊勢神宮とともに例幣使として毎年派遣されるようになります。>

1648年
4月 慈眼大師の謚号(しごう、おくり名)が朝廷から贈られます)。

1654年 後水尾天皇の第3皇子・守澄 法親王(しゅちょう ほっしんのう)が日光山門主となります。東叡山を兼帯します。

1655年
守澄法親王が第179代天台座主(ざす)につきます。

2月 守澄 法親王に「輪王寺宮(りんのうじのみや)」の号が勅賜されます。
守澄 法親王は、比叡山、東叡山、日光山の三山管領宮(さんざんかんれいのみや)とよばれます。
毘沙門堂が門跡(もんせき)寺院に昇格します。
 <* 門跡寺院とは、皇族・貴族が住持をつとめる格式高い寺院のことです。) >

(年齢は1月1日生まれ換算の満年齢です。)

*     *     *

増上寺徳川将軍霊廟物語
喜多院  家光誕生の間
徳川綱吉と館林市(群馬県館林市)  

*     *     *
天海僧正 文献目録


(改稿:2010年5月、2011年6月、2011年7月、2011年10月、2013年1月)

(credit for the group ↓)
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