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平将門の首塚

平将門の首塚 

将門首塚の案内板
住所は大手町一丁目 【地図

ビルが林立する中で静かな一角を占める将門の首塚

将門の墓碑
酒井家の屋敷跡で伊達安芸(だてあき)、
原田甲斐(かい)の殺害されたところでも

将門の首塚(=将門塚、しょうもんづか)は神田神社が管理

桓武天皇の血を引く平将門(たいらのまさかど)は、
いまの茨城県西部に本拠をもっていました。

将門は、939年ごろ新皇(しんのう)と称し、
地方の豪族をまとめ、関東王国を築こうとしました。

朝廷の横暴な役人を放逐(ほうちく)した行動は、
東国の民衆の共感を呼びました。

しかし 940年に討たれます。

死後、壮絶な死とあいまってますます
人気が出るようになりました。

将門は、御霊(ごりょう)信仰の主役である
菅原道真(すがわらのみちざね)の亡くなった903年に生まれたといわれ、
道真の生まれ変わりとも信じられていました。


以後、将門の怨霊(おんりょう)はたたり続けます。

◇                    ◆                    ◇

朝敵として討伐された将門の首(頭のこと)は、
京都に運ばれ河原にさらされます。

しかし、3日目に夜空に舞い上がり、
東国をめざして飛んで行き、ここ大手町(かつての芝崎)や数カ所に落ちました。

江戸時代のある時期には、
この将門塚のあたりは、
酒井雅楽頭(うたのかみ)の屋敷の庭になりました。
ここで、伊達騒動で知られる原田甲斐(かい)と伊達安芸(だてあき)が殺し合いを演じます。

<※ 武家屋敷の庭には、白い砂や小石が敷き詰められていました。ここで、罪状認否をおこなうので「お白州(おしらす)と言いました。」 山折哲雄、日経、2012/05/13>

明治になり、酒井邸はこわされ大蔵省庁舎が建てられましたが、
首塚はそのまま残されました。
だれもこわす勇気がなかったようです。

1923年関東大震災でこの付近にあった大蔵省庁舎は全焼します。
首塚を工事でくずしてしまいました。
…。

大蔵大臣が57歳の若さで死亡しました。
その後14人の大蔵官僚が亡くなります。

…。

大蔵省は、仮庁舎を取り壊し、首塚を復元し、盛大な慰霊祭をおこないました。


1940年、大蔵省に落雷があり、多数の死傷者が出ます。
この年は将門没後1000年目でした。

急きょ盛大な一千年まつりが大蔵省によりおこなわれました。


1945年米軍は大駐車場をつくろうと、工事を開始しますが、
ブルドーザーで墓石を掘り出そうとしたとき、2人が死亡し、中止に追い込まれました。


1963年、将門塚に面した新設の日本長期信用銀行の各階の行員が次々に発病しました。
神田神社の神官がおはらいをしました。

1998年、長銀は破綻します。
毎年9月22日には、周辺大企業の幹部があつまり慰霊祭をおこないます。
将門の墓碑に香華(こうげ)が絶えないゆえんでもあります。
【追】

徳川幕府の宗教顧問・天海は、皇室中心の政治から、武家中心の政治をめざしていました。
首塚の将門の霊を神田神社に遷座し、江戸の町の総鎮守(江戸をまもる大元)にしました。

朝廷に幕府への口出しをさせないためです。

将門の首塚は大手町にあります。
「大手」とは、玄関先のことです。
朝敵・将門は江戸時代には幕府を守り、明治以降は皇居を守っています。

江戸っ子は成田山へ行きません。
平将門の乱の平定祈願をおこなった寺だからです。