ページ

蓮馨寺界隈今昔物語

蓮馨寺界隈今昔物語 興行と庶民の憩いの場であった蓮馨寺
 蓮馨寺(れんけいじ)境内の縁日
 http://image.space.rakuten.co.jp/lg01/81/0000760481/57/imgb7fe4f17zikezj.jpeg

以下のコラムは、石橋啓一郎「興行と庶民の憩いの場であった蓮馨寺」
『東上沿線物語』第28号を
ウェブ向きに編集したものです。

東上線沿線地域の情報紙 『東上沿線ものがたり』 :購読方法
*     *     *

蓮馨寺(れんけいじ)の境内は、かつては露店が立ち並び、
相撲やサーカスの興行が繰り広げられる川越の庶民の夢、楽しみごとの拠点でした。

毎月8日の呑龍(どんりゅう)デー(縁日)や、
触った所が治ると言われる「おびんづる様」で、市民から親しまれています。

蓮馨寺住職粂原恒久(くめはらこうきゅう)住職、関係者の方々にお話を伺いました。
(以下、石橋啓一郎)

「おこもり」が始まりの呑龍デー

―明治になってからの蓮馨寺はどうだったのですか。

粂原 
神仏分離令から起こった廃仏毀釈で
仏教が軽んぜられる風潮に対抗しようという事で、
蓮馨寺も呑龍上人を明治初年から祀り始めました。

で、呑龍上人が亡くなったのが9月9日なんですけど、
9月9日の一日前が「お逮夜(たいや)」っていうことで、
亡くなった日の前日に供養するっていう習慣があるんですよ。

縁日はそのお逮夜の日に皆が集まって、
呑龍上人が目指した人々の幸せを
実現する日としたんです。

当時の縁日はTVだラジオだなんて無い時代だから、
お経が終わると呑龍堂だけでなく
本堂にもみんなが上がり込んで、
朝まで三味線や、歌を唄ったり、
お酒飲んでの「おこもり」をして
「来月もまた来れる様に頑張ろうな」と言って
励ましあい、
朝になると帰っていったわけですよ。

毎月8日を縁日として明治初年からずっと決めてるわけ。
それが呑龍デーの始まりなんですね。

現在の本堂と呑龍堂は川越の大火(1893年、明治26年)の
後に建てられたものです。

建立にあたり国から軍艦に使う非常に良い木を
払い下げして貰ったということです。

縁日には人が集まるので次第に露店が出る様になり、
呑龍堂の完成でさらに盛り上がります。

1955年(昭和30年)代全般まで「おこもり」はやっていましたが、
TVの普及するにつれ集まる人が減り始めました。

1973年(昭和48年)頃におこもりは
自然になくなりますが、
お寺を解放する「おこもり」の伝統は山門を閉めない事で
今の蓮馨寺にも受け継がれています。

サーカスに大相撲
(写真 石橋啓一郎)

―大正になるとどうだったのですか。

粂原 
サーカスとかね、大相撲が来ました。
(当時の写真を手に取りながら)
これを持ってたのは、三井病院横にあったホームラン劇場の
桜井さんという代々の興行師さん一家の現在のご当主さんなんです。
興行主としての歴史的資料を寺におあずけになりました。

蓮馨寺前の中央通りを越えてサーカスのテントがある写真(中央通り完成前のおそらく大正時代)、相撲巡業時のものと思われる太陽軒の130人前の食事領収書、関脇若ノ花(何代前の若ノ花かは不明)の名が記載されている大相撲慰安券(入場券)などが残っている。

戦後生まれの粂原住職が分る範囲でも相撲は2回くらい、サーカスは5回くらい行われたそうだ。

鶴川座の横に興行時の記念写真が貼ってある。
川越人の楽しみは蓮馨寺から始まったということは確かなようだ。

―昭和から現在の蓮馨寺について教えて下さい。

粂原 
日華事変とか太平洋戦争に応召する人達が、
蓮馨寺にお参りしてから戦場へ行くという歴史がありますね。

戦争中は陸軍の師団が当山を借りてたみたいですよ。
縁日も太平洋戦争中は一時中断したようですが。

川越で初の街頭テレビ」

昭和20年代の後半ですかね、昭和30年頃だと思うんですけど、
境内の真ん中にTV受像機が置かれました。
街頭TVは川越で蓮馨寺が始めてですね。
小さなTVだったですけど、NHKがテレビの普及を
目指して設置したんです。

その頃から呑龍さんの縁日に来る人の数も減ったけれども、
やがて呑龍会という会が出来て、昭和60年代くらいから
勢いが盛り返してきましたね。

芸人でもある方々による南京玉簾などの芸能、

宝井琴梅師匠による講談が毎回欠かさず披露されています。
講談は落語と違い、最近の出来事や事件を分り易く伝え、
情報を市民に伝え、またそこから教訓を引き出すという芸能です。

昔はお寺が社会的情報の発信基地だったんですね。
境内の役割を復活させる意味でも蓮馨寺で20年以上続いています。

また、最近では、戦後30年続いた「やきそば屋」さんも復活、
縁日も「呑龍デー」として多くの市民を集め、
往年の活気をとりもどしつつあります。

90年の史 だんご「松山」 松山さん

川越で人の集まる中心だった境内にあるだんご屋「松山」。
3代目の御主人松山泰雄さん(75)にお話を伺った。

―お店はどれくらいの歴史があるのですか。

松山 
始まりは大正の終わりだから90年くらいだね。
屋台みたいので昭和40年くらいまでやっていて、
いざ店みたいのを構えようと。

―昔の境内の様子を教えて下さい。

松山 
店は焼きそばとうちの2軒になってしまったね。
前はもっといっぱいあったんですよ。
今で言う露店商みたいのがね。
縁日だからじゃなくても毎日ね。   

戦後は「闇市」で魚屋から肉屋からみんなあったんだよね。
全部で20軒近くあったんじゃないかな。

で、闇市の店がそのまま露店として残り、
段々減っていなくなっちゃったけどね。

―行われた興行はどうでしたか。

松山 
今はここだと狭いけど、昔はあのキグレサーカスってのが
さんざんやったんですよ。
1月はサーカスで、2月が相撲かな。
だいたい決まってたね。
それが定番だね。

あとボクシングやったりね。
ここにリング並べてイス並べてね。

旧市内の図面を見ると
川越は蓮馨寺が中心なんですよ。
人の集まる所の中心だったんですよ。

喜多院さんよりもここの方が人が集まるんだよ。
喧嘩もあれば、何でもここが中心。
ここが盛ったんですよ。


川越の中心として、人の集まる場所であり、
興行のルーツでもあった蓮馨寺。

現在は参道を我が物顔で歩くネコや、
寄り添って来るネコがいて、周囲が観光化で変化する中、
ゆっくりとした特別な時間を提供してくれている。
今も24時間開放のままで。

鶴川座

蓮馨寺の前、中央通りを隔てた旧映画館「鶴川座」は、
元々境内にあった小屋から始まり、
今では日本でも最も古い芝居小屋跡の一つになっています。

明治までは、川越織物市場跡あたりまで
蓮馨寺の敷地だった。

境内地にあった寺の守り神が熊野神社だ。

中央通りができたのは昭和の初期で、
県から、「川越の発展のため目抜き通りをつくりたい」と要請され、
境内地の一部を上納しました。

鶴川座は、境内の小屋としては明治の末期からあったが、
中央通りができてから来た鶴川組が、
芝居小屋として整え、鶴川座と名づけた。

現在は寺が建物も買い戻し、中は手をつけないで保存されている。
月に2日くらい「仮面ライダー」などの番組、映画撮影に使われている。

蓮馨寺 まとめ 

0 件のコメント:

コメントを投稿