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太田道灌の眠る龍穏寺(りゅうおんじ)。越生町

龍穏寺は1200年以上も前に役行者(えんのぎょうじゃ)らによって創始されました。
関東の曹洞宗の第一の寺でした。
戦火に包まれたあと、太田道灌が父・道真と 再建しました。




龍穏寺はグリーンの〇
15世紀頃の越生(おごせ)は、扇谷(おおぎやつ)上杉の境界付近に位置していました。
合戦の最前線でもありました。
上図で、グリーン以外の多くの丸印は、龍穏寺の末寺でした。


扇谷上杉家の家宰(筆頭重臣、領主のかわり)であった太田家は、砦を龍穏寺の境内に築いていました。

※扇谷(おおぎやつ)とは、鎌倉地方にある低い小さな谷をいいます。

大田道真は文武に優れており、殊に歌道は、息子の道灌よりその実力は上であった、ようです。
居城にしていた河越城で『河越千句』という連歌会をおこない、高い評価をえていました。

1456年頃、道真・道灌父子は江戸城、川越城を築きます。

その後、大田道灌は江戸城の初代城主になります。

父の大田道真は川越城に居城しました。

大田道灌は、危機に追い込まれた上杉家にあって約30年30戦の戦いを勝ち抜き、ほぼ独力で上杉家を救ったと言われます。

道灌の名声が高まるにつれ、主君の上杉定正は不安を覚えます。
ついに1486年太田道灌は上杉定正によって暗殺されてしまいます。


徳川家康は、龍穏寺を関三刹(かんさんさつ)に任命しました。
関三刹とは、全国を三分して、4000近くの曹洞宗の宗政をつかさどることで、3寺は絶大な権力をもっていました。
【※】    関三刹(かんさんさつ)の寺
        大中寺 :栃木市大平町西山田
        總寧寺 :市川市国府台
        龍穏寺 :入間郡越生町

1646年(寛永13年)、10万石の格式を与えられました。

1678年(延宝6年)、麻布本村町・御薬園(現:南麻布・薬園坂付近)に約600坪の宿寺が建ち、龍穏寺住職が江戸に在住し職務をおこないました。

大本山・永平寺の住職には、龍穏寺より13人が選ばれています。

龍穏寺はその環境や建物が大本山の永平寺に似ているところから小永平寺と言われています。


その後、太田家は後北条家に仕え、さらに徳川家康に取り立てられました。

・江戸城を築城したのが太田道灌でした。
・太田道灌の子孫・英勝院 は、徳川家康の側室となり、幕府内に重きを成しました。
太田の子孫・太田資宗(すけむね)は、徳川家光の側近の一人であり、後の若年寄の元となりました。浜松藩3万5000石まで登りつめました。
・資愛(すけよし)、資始(すけもと)などの老中も出しました。





*曹洞(そうとう)宗
鎌倉時代の道元がはじめた禅で有名な宗教です。

スティーブ・ジョブズと禅 


*曹洞宗・曹洞禅ネット

 龍穏寺の山門
龍穏寺地図

 太田道灌像

 寺の周囲は野鳥の森となっています。

「火の見下」停留所から歩きました。車がほぼ通らない山道です。
途中の畑には、柵がありました。イノシシがあらわれるようです。

 イノシシよけの柵、2004年近隣の畑にて

途中、ツルニンジンが群生しているところがありました。
ツルニンジン(蔓人参)
*ツルニンジン(蔓 人参)の効能 


龍穏寺の所在地



 太田道 灌の山吹の里:越生町

龍穏寺


曹洞宗  【13+】道元、只管打座(しかんただ)、

鎌倉新仏教:浄土浄土真宗日蓮時宗臨済曹洞





 (初出:2004年7月28日。以降、適時改稿)