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オオクニヌシは上海付近からやってきた

オオクニヌシ(大国主)は長江から
いまから1万年も前(紀元前100世紀)に、上海近く(江南、杭州湾沿岸の地)で、稲作耕作民が生産性の高い農業を営んでいました。

かれらは都市文化もおこしました。

これを長江文明と言います。
長江文明は黄河文明より古いです。

ところが、紀元前20世紀に、江南の稲作耕作民は、北からやってきた黄河文明の小麦牧畜民(夏王朝)に滅ぼされてしまいます。

南の稲作民は、北の牧畜民に滅ばされました。

南の稲作民の一部は、日本の出雲などに逃れることになります。
指導者はオオクニヌシでした。
高い技術集団のオオクニヌシらは、やがて縄文人の上に立つようになりました。
《*縄文人は、アイヌや沖縄人のように目鼻立ちがはっきりしています。》

その後、アマテラスを長とする弥生人が大陸の別のほうからやってきて、オオクニヌシ一族+縄文人の日本を支配するようになりました。

オオクニヌシ一族も、アマテラスの弥生人も、外来人で、
数が圧倒的に少なかったので、
先住民である縄文人を滅ぼすことはせず、
逆に先住民のかつての指導者を神として手厚くまつったりして、
負けた側を味方につけるようにつとめました。

出雲大社に、勝ったアマテラスではなく、
負けた側のオオクニヌシをまつってあるのは、このためです。

日本は少数の征服民族が多数の土着民族を征服してつくった国です

被征服民を絶滅させず、その長をまつったりするのは、征服民の数が圧倒的に少なかったからです。

長江文明

【cf.】
井沢元彦『日本史再検討』のなかでの梅原猛の発言

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