ページ

プロフィールの書き方: 桑原政則の場合

(2006年5月作)

◆ なぜプロフィール?

混沌とした現代に自分を見失わずに生きていくことはむずかしいものです。

自分を確立し、「自己実現」をはかるためには、「自分探し」により自分の座標軸を見すえることが必要です。若い人々のために、自分探しのためのアイテム(item、項目)を質問形式で紹介していきます。

これらのアイテムが、自分史の材料になり、プロフィール(profile、横顔)づくりの一助になることを期待します。
プロフィールをA4紙1ページにおさめ、名刺とともにわたすと、自己アピールにもなります。

なお、自己実現とは、「みんなによろこばれて、元気に楽しくいきること」です。

私事を記すことは、ものぐさくとまどいがあるものですが、若い人への参考のために、あえて桑原政則を実験台にプロフィールの書きかた、キーワードを探っていきたいと思います。


◆ 生まれは?
1940年に生まれました。昭和15年で、辰年です。

皇紀(こうき)2600年です。
初代天皇の神武天皇の即位から2600年目です。

零戦は2600年にできたので、ゼロ戦と命名されました。

1940年生まれの著名人には、野球の王さん、すもうの大鵬をはじめ、次のような人がいます。

麻生太郎 荒木経惟 王貞治 篠山紀信 大鵬幸喜 野口悠紀雄 原田泰治 板東英二 村松友視 竜雷太


◆ 生年のできごとは?
【ウィキペディアで、「1940年」と入力すると、参考情報が得られます。左欄のEnglishで英語情報が。】
  • 1940年は、翌年の太平洋戦争への準備を陸軍が着々と進める年でした。
    日独伊三国同盟締結、大政翼賛会発足の年でした。
  • 陸軍強硬派による内閣交代が2度もおこなわれました。
  • 日独伊三国同盟が締結されました。
  • 大政翼賛会が発足しました。
  • お互いを監視しあう隣組制度にみんな加入することになりました。
  • 洋風禁止のため、ダンスは禁止となり、「ドレミファ…」は、「ハニホヘト…」に変更になりました。
    ディック・ミネなどの洋風芸名も禁止となりました。
  • 紀元2600年記念行事が行われ、満州国皇帝の溥儀(はくぎ)も奉祝に来日しました。
  • 「八紘一宇(はっこういちう)」が流行語でした。
    「八紘一宇」とは、全世界を一つの日本の家にすることで、日本の海外侵略を正当化する標語でした。
  • 「贅沢は敵だ」の贅沢(ぜいたく)禁止令が出されました。
    指輪などをしていると、「指輪は全廃しませう」と記されたカードを渡されました。
  • 流行歌「蘇州夜曲」「湖畔の宿」がはやりました。

◆誕生日のできごとは?

自分の誕生月日の出来事や星座は下から調べます。
【例】1月1日誕生月日の出来事。ウィキペディア

◆しあわせなひとときは?

ホームページやブログの更新、毎日の課題を終えたときです。

終えたときは、達成感で周囲がバラ色に変わります。
この至福のひとときがあるからこそ、次の課題へのチャレンジ精神が生まれます。

ホームページの更新は1995年以来、ほぼ毎日ペースでおこなっています。

インターネットに1995年に出会ったとき、脳内に電撃が走りました。
「これは、産業革命以来の大革命だ。この革命に参加しよう。」と決意し、いまに至っています。

「あることに精通するには、10年以上続けること」といわれますが、インターネットを通じ多くの事柄を学び、「桑原政則オンライン」「武蔵観研」を通じて、多くの人から知遇を得ています。

◆ 座右銘、人生訓は?


「常在学習 万象皆師(ばんしょうかいし)」です。

中小企業の経営者は、仕事が趣味なので長く働きます。
また生き抜くために常にアンテナを張り、勉強しています。
「仕事が遊び」、「仕事が勉強」になっています。

「ひとり仕事」を主にするわたしの場合も同様です。

変転激しい今の世の中では、仕事・遊び・勉強の融合が理想的です。
公私融合です。

仕事に遊びの要素があれば、やりがいがあるので、仕事にうちこむ日数も時間数もふえます。

<* 新潟県・長岡藩の藩是は、「質実剛健」「常在戦場」でした。
わたしの座右銘の「常在学習」は、ここに由来します。>

◆ エト、九星、星座、誕生石、誕生花は?
干支(えと)は龍、九星は六白金星、星座はしし座、誕生石はペリドット、誕生花は「さぎそう」です。

◆ 好きな麺類は?
そば→ ラーメン→ パスタ→ うどんの順です。
  • そばは、冬でももりそばです。
    そば屋さんが多い街は、上品でしっとりしたところが多いようです。
  • ラーメンは、タンメン(野菜入り塩味ラーメン)が好みです。
  • パスタは、ボンゴレ(VONGOLE アサリ)がいいですね。
    アメリカでは、パンもついてきて、できあがりがおそいので、ワインがお供になります。
    イタリア、ローマのトレビの泉付近で、安いパスタでおなかをいためました。
  • うどんは、まだ出会いがありません。
<* 沖縄に行くと、毎日沖縄そばをいただきます。 >

◆ 利き目は?
右です。長時間のデスクワークやパソコン作業では、利き目(ききめ)に負担がかかるので、特に右目のケアに留意しています。

きき目は次のようにして、調べます。
  1. 手でOKの穴をつくり、顔から10cmはなします。
  2. 穴から目標物を見ます。
  3. 右眼を閉じて目標物が見えていれば、右目が効き目です。 
◆ 利き手、利き足は?

共に右です。

スラックスなどの寸法は、きき足ではかりますね。
きき足では、ボールなどを蹴ったりするので、少し長くなっているからです。

東南アジアの国などでは、左手は不浄とされているので、左利きの人も右手で物の受け渡しをおこないます。

きき手は、英語では、 dominant hand といいます。左利きは、left-hander 、southpawといいます。


◆  出身地は?
東京と三重県です。
1940年東京の下町で生まれました。
父は三重県人、母は東京人です。

1945年、4歳の時、東京大空襲を逃れるため、兄と二人だけで松坂市の奥にある飯南郡(いいなんぐん)という奈良県境の村にある父の実家にあずけられました。
<*  小津安二郎監督がこのあたりの出身です。>

本も紙もラジオもなにもない時代でした。
食事はイモ、イモ、イモ、カボチャでした。
イモは茎まで食料でした。
今でもイモ、カボチャが苦手です。

川カニ、カエル、ヘビも食料でした。
ミミズは天日に干して煎じ薬にしました。
草木虫魚の価値は、食べられるかどうかによりました。

お手伝いで、丸太をかついで山を何回もくだった記憶があります。
わたしはいまだに腰痛になったことがありませんが、丸太担ぎなどで、腰の使い方を幼時に体得したからでしょうか。
ふりかえるときびしくも楽しい自然学習のときでした。

川はきれいで鮎の友釣りを楽しんだこともありました。

東京の家は、1945年の東京大空襲で全焼しました。
わたしは、おばさんたちが竹槍を、大空を遊弋(ゆうよく)するB29爆撃機に向けて「エイヤッ」と突き立てているのを覚えています。
防空警報のサイレンが鳴ると、いそいで家の前に掘った防空壕に逃れました。

東京の家財道具は、全焼前に、三重県に運び込まれました。
しかし疎開(そかい、戦争からの移転)先の家もしばらくして全焼してしまいました。
わたしは、「家は焼ける」ものだとの思いこみがあります。

2回の全焼にもかかわらず、不思議にアルバムは残っています。
以来、わたしは、アルバムを大切にしています。
今は、ウェブ上に保存できるので感謝しています。

小中学校は津ですごし、津高1年を終えて東京に転校しました。
津は関西方言なので、津駅では、「ツウ、ツウ」と2音節で発音します。
木は「キイ」です。

三重県の隣は和歌山です。
木(キイ)のクニですから、「紀伊」となりました。

三重の疎開先では、東京弁をからかわれるので、いつも兄と二人きりでした。
高校2年で東京へもどったら、伊勢弁をからかわれました。
高校の教室掃除で疲れて、「あー、えらっ」といったら「何が偉いの」と大笑いされました。

このデラ シネ感は日本のどこにいてもついてまわり、後年、東南アジアなどの外国へでかけるようになるののも、無意識のふるさとさがしかもしれません。

戦後は、何もなく、食べることだけが関心事でした。
しかし、空は青く、山は緑で、水は澄み、なんとなくみんなあかるかったです。
軍隊、警察、隣組など重しがとれて、身軽になったからでしょうか。

明日は今日よりちょっぴりはよくなるとの思いがありました。
  • 東京大空襲 ウィキペディア
    • 日本政府は、東京への無差別爆撃を指揮し、東京の3分の1を焼いたカーチス・ルメイという男に勲一等旭日章をさずけています。
      日本はいまだに戦争記念館を建てるのを遠慮しているようです。
◆ 学校の思い出は?
1946年(昭和21年)飯南郡から引っ越して、津市の高茶屋(たかちゃや)小学校に入学しました。
教室が足りないので、午前午後の2部授業でした。
廊下授業もふつうでした。
窓ガラスはなく、代用ガラス(網戸にのりをはったもの)でしたので、廊下と教室の声はつつぬけでした。

1年生の時は、国語の教科書はガリ版刷りで「アカイ アカイ アサヒ」【画像】とカタカナで記されていました。
当時は漫画もカタカナでした。
蝶々は「テフテフ」でした。

2年になって突然ひらがなの教科書になりました。
カタカナは軍国主義を助長するから「ダメ」とのことでした。
突然のことで、頭がラリラリラーンとなり、自分を喪失し、外国人になったような気がしま した。

学校は午前で終わったり、午後から始まったりでいい加減でした。
その時々で来ない者も多くいました。
食べるものがなく、栄養失調が常態でした。

しかし、ある時から学校がみんなにとって楽しみに変わりました。
無料給食が始まったのでした。
さいころ4つ分ぐらいの分厚いチョコレートが出たことがありました。
コッペパン、ミルクが出るようになったのです。
天国降誕です。
ある者は給食時間にだけ学校にきたりしました。
農繁休暇で家を手伝っているので、昼の時だけやってくるのでした。

それまでは、登下校の途中で草花、虫、野菜、芋、木の根ですきっ腹をいやしていました。
わたしたちが下の世代よりも身長が10センチも低いのはこのためです。

<* わたしたちの学校を天国にしてくださったのが、原敬の書生をして、アメリカに渡った浅野七之助さんです。
浅野さんの「ララ物資」でわたしたち児童は学校が好きになり、体力を維持できました。浅野さんはわたしたちの世代の恩人です。 >

今でもわたしの好物は、かつおぶし、のり、タマゴです。
その時代の高級品だったからです。
タマネギや漬け物にミニ袋いっぱいのかつおぶしをかけると、ゴージャスな気分になります。
タマゴかけご飯も時たまのごちそうでした。
タマゴ2つは許されませんでした。

風呂はなく、庭でたらいで週1、2回、行水(ぎょうずい)でした。
湯上がりタオルなどはなく、それで今でももったいなくて使ったことがありません。
これからも使うことはないでしょう。

学校には校則も宿題もなく、毎日外で日が暮れるまで遊びました。
野原、川、森などの自然が先生でした。
わたしは棒高跳びが得意でした。

小中高の時代には、家には机も勉強部屋もありませんでした。
うちで勉強したことはありませんでした。

本にありつけるようになったのは、小学校5、6年の時、となりの古物商に大量の本が運び込まれるようになってからでした。
毎日、山のような古本を手当たり次第に読むのが楽しみでした。
*     *     *

そのころ、わたしたちのキョウーダイは、5、6人がふつうでした。
お国が親に「生みなさい」といったからでした。

戦後は「日本が貧しいのは人口が多すぎるからでする」と学校では教え続けました。
わたしは親戚のいるブラジルへ行くことも考えました。

今は、「生まないから日本は滅びの道を走っている」といわれています。
東京で民間人を殺し、家を焼いたのは、日本政府と米政府ですが、沙汰なしです。

国というものは、いい加減なものです。
国は国民のことを考えません。

◆ 日頃の心がけは?
「心持ち(good-hearted person)」になることを心がけています。

農業の時代は、「土地持ち」が世の中を左右していました。

資本主義の時代は、「金持ち」が権力をにぎり、人々は金持ちをめざします。

しかし、アメリカの例を見ても、金持ちはいそがしく、対人関係を損得で判断し、家庭や近くの人々とゆっくりする暇もありません。
常に競争にさらされていて、一瞬の油断も許されず、一歩まちがえると、奈落が待っています。
決してしあわせではありません。

時代は、 「土地持ち> 金持ち> 時間持ち> 心持ち 」 へと、移行しています。

農業社会では資源は土地でした、工業社会では工場でした、今は資源は人の頭の中にあります。

人が、大学などへかようのは、漠然とでも、「学ぶことが幸せになる最善の手段」と思っているからでしょう。

わたしにとっても、新しいことを学ぶことは、仕事でもあり、勉強でもあり、趣味でもあります。
一生学び続けます。

またそれ以前に、人に迷惑をかけないためにも、またしあわせになるためにも、健康に留意しています。

わたしの手帳には、タイ語で「健康で、ほほえみ、ひとをほめ、ゆっくりと、紳士的に」と自戒のことばが記してあります。
また「常在学習 万象皆師」の座右銘もあります。


◆ 朝はなにを?

目覚めが早すぎる場合は、昨晩の書物をよみつづけます。
起きたら散歩にでかけます。
近くに神社、お寺があるので、そこでiPhoneのラジオ体操をします。
新聞は仕事の合い間によみます。

◆ ゴルフは?
高2  キャディー
タイ
アメリカ

今 自動車

◆ 新聞は?

新聞の読み方

◆ ブログは
1日にメリハリ  IT能力が自然に  仕事≒趣味  世界に敏感  義務感⇒達成感
ホームページも同じ
桑原政則

0 件のコメント:

コメントを投稿