殉節 越後長岡藩士の碑 |
ここで長岡藩士が手あつく、ほおむられています。
「殉節(じゅんせつ)越後長岡藩士の碑」
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山本帯刀(たてわき)は、神童のほまれ高く、武芸にも通じていました。
山本家は、武田信玄の軍師・山本勘助の血を引く名門でした。
山本帯刀(たてわき)は、河井継之助(つぎのすけ)の近くに常にいました。
山本帯刀は、河井継之助の改革を率先実行しました。
1868年戊辰戦争で、河井継之助(つぎのすけ)が負傷して
会津へ300キロ以上の遠行の際も、
しんがりをつとめました。
24歳の山本帯刀(たてわき)を
大隊長とする長岡藩43名は
濃霧の中で敵陣に孤立しました。
山本帯刀たち30数名は生け捕りにされました。
山本帯刀たちは降伏を拒否し、斬首されました。
<* 長岡の牧野藩は譜代(ふだい)でした。
譜代は、外様(とざま)と違って徳川への忠実を宿命づけられていました。
石高(こくだか)は低かったが,要地に配置されました。
会津藩は親藩(徳川一族)ですから、徳川そのものでした。
のがれられない「しがらみ」を背負っていました。>
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山本帯刀がなくなり、山本家には、跡取りが亡くなりました。
山本五十六(いそろく)が山本家を相続しました。
山本五十六は、のちに大日本帝国海軍、連合艦隊司令長官となりました。
会津で養父・山本帯刀を失い、
会津藩士の娘を妻にした山本五十六にとって、
会津は第2のふるさとでした。
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河井継之助は
長岡での流れ弾による破傷風のため、
南会津郡只見町の塩沢で亡くなりました。
鶴ヶ城では戦争中にもかかわらず
会津藩主 松平容保(かたもり)臨席のもと、
盛大な葬儀がとりおこなわれました。
河井継之助 埋骨(まいこつ)の地
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長岡市の悠久山(お山)に河井継之助の碑があります。
悠久山公園の河井継之助の石碑