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酒井重忠。家康に直接仕えた川越藩の初代藩主。8月22日没。Sakai Shigetada <川越の先人

酒井重忠。家康に直接仕えた川越藩の初代藩主。8月22日没。Sakai Shigetada <川越の先人

川越藩初代藩主・酒井重忠  / *

・1549年 ~1617年8月22日没。68歳


酒井重忠は、川越藩の初代藩主です。

三河に生まれ、若い頃から徳川家康に仕え、
合戦に参加しました。

1582年、本能寺の変で織田信長が死去した時、
家康一行を伊勢で船で出迎え、安全を確保
しました。


1590年に徳川家康が関東に移封されると、
江戸近くの要衝である川越に所領を与えられました。


酒井重忠は、家康に厚く信頼される重臣でした。
酒井重忠の父も、
徳川家康が人質として駿府に送られた際にも行動を共に
しています。


※【
川越藩の誕生
川越藩の誕生は、酒井重忠が藩主になった1590年です。


酒井重忠は1590年から1601年まで川越の領主でした。

1600年の関ヶ原の戦いにも参加し、
戦功により、川越藩の分領・厩橋(うまやばし)に
3万3000石の所領を与えられ、
厩橋藩初代藩主となりました。

【2分】酒井重忠 

※【 厩橋(うまやばし)とは
群馬県の厩橋(うまやばし)は、
のちに
「前橋」と記されるようになりました。


まとめます。
川越藩初代藩主は、酒井重忠です。
川越藩2代藩主は、弟・酒井忠利です。
川越藩3代藩主は、酒井忠勝です。
2代藩主酒井忠利の子 です。

3人の藩主が45年間、川越藩の藩政の基礎づくりをおこないました。


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堀川夜討(ほりかわ ようち) /*
堀川夜討  /*  東京国立博物館

酒井重忠「堀川夜討の屏風絵図」を養寿院に寄進

堀川夜討(ほりかわ  よ・う・ち)。1185年、京都

堀川夜討は、
源義経が京都堀川の自邸を、
源頼朝の命により、襲われた事件です。
堀川夜討から義経の凋落が始まりました。
最上段の絵は、「血みどろ絵」のさきがけでもあります。


川越藩初代藩主・酒井重忠は、
毎夜、矢叫び(やさけび)や蹄(ひづめ)の音で眠りを乱されました。

「城内のどこかに戦の絵があり、それが原因です」
との助言で宝物庫を調べます。
堀川夜討の戦いを描いた一双の屏風(びょうぶ)がありました。

この屏風を川越の養寿院に寄進したところ、
その夜から音が消えました。

この話は、『川越城の七不思議』に
「城中蹄の音(じょうちゅう ひづめのおと)」として伝わっています。


この物語は、養寿院が、
川越藩初代藩主の時代から藩主に
帰依(=信仰)されていたことを伝えています。
徳川家康も養寿院に立ち寄りました。


川越では、養寿院、喜多院、蓮馨寺(れんけいじ)が御朱印寺です。

※【御朱印寺(ごしゅいんじ)  
将軍の朱印状によって,寺領の年貢が免除された寺社



源義経の正妻は、川越の河越重頼の娘です。
河越重頼の五輪の塔が、養寿院本堂左奥にあります。


小浜市と川越市のつながりは酒井候に 


酒井家の略歴

酒井重忠は川越藩初代藩主です。
初代、2代、3代で45年間にわたり、
川越藩政の基礎づくりをおこないました。

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【※】【観光は、郷土の歴史の深掘りでも
観光の隆盛は平和な社会の象徴です。
国と国とではなく、自分のマチと外国のマチの
草の根の交流が必要です。

マチをおもしろくする必要があります。
(マチとマチの交流には、戦争はありません。)

高校に郷土部がなくなり、
郷土への無関心層が激増しています。

郷土の歴史を掘り起こしたいものです。
川越と源氏のつながりも深いものがあります。


※1石はいくら?
米1石=金1両=小判1枚=約10万円
概算です。

*
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7
Art & Bell by Tora
川越市立博物館「酒井忠勝にみる近世大名の姿」『博物館だより』第17号、1996

【川越藩主】8家
  1. 酒井〔雅楽頭〕
  2. 酒井〔雅楽頭家 分家〕
  3. 堀田
  4. 松平 (大河内)氏
  5. 柳沢
  6. 秋元
  7. 松平(越前)
  8. 松平 (松井) 

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