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第1回 縄文時代と弥生時代

第1回 縄文時代と弥生時代


縄文時代は12000年前から続きます。

青森県の三内丸山(さんないまるやま)は5500年前から1500年間続来ます。

この三内丸山には住居や倉庫、ごみ捨て場などが配置されていました。
人々は「竪穴(たてあな)住居」とよばれる、木や草などで作った家に、家族単位で住んでいました。

マダイやヒラメなどの魚のほか、クルミやクリなどの木の実を食べていたことがわかりました。
イノシシなどの獣(けもの)や、ハマグリなどの貝、キノコなども食べていました。
狩りや漁を中心とした、自然にとけこんだ暮らしだったことがうかがえます。

縄目(なわめ)をおしあてて模様を作っていた「縄文(じょうもん)土器」を作っていました。
土器を使って、生ものに火を通して安全に食べたり、かたい木の実をやわらかくにたりすることができるようになったのです。
土器の登場で食生活が豊かになりました。

ほかの地域から手に入れることもありました。
矢じりやナイフの原料となる黒曜石(こくようせき)や、装飾品などに使われたヒスイは、海をへだてた北海道や、長野、新潟などでしかとれないものでした。
三内丸山の人々は、遠い地域と交流して手に入れていたことがうかがえます。

三内丸山遺跡


三内丸山には、新潟県糸魚川のヒスイが来ています。
伊豆諸島の神津島産黒曜石も出ています。


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縄文土器は、縄(なわ)の模様と分厚いつくりが特徴(とくちょう)でした。

そしてもう一つの土器が、「弥生土器」です。
縄文土器と比べると、うすくてかたいことが特徴です。
この土器の変化には、ある食材との出会いが大きく関わっています。
それは、米です。

中国や朝鮮半島から伝わった米作りの技術が、今から2300年ほど前に大きく発展しました。
福岡県の板付遺跡(いたづけいせき)。
水田の跡(あと)が発見され、大規模な米作りが行われていたことがわかったのです。
土を耕すための農耕具や、イネをかり取るための石包丁もありました。

たくさんの米を収穫するために、人々は協力して土地を切り開き、水田を作りました。
大勢での作業を効率よく進めるために、ある役割が生まれます。
それは、「指導者」です。
指導者の指示で、効率よく組織的に米を作れるようになったのです。
とれた米は、ネズミなどの被害(ひがい)にあわないよう床(ゆか)が高くなっている倉庫で保管しました。
米作りの規模は大きくなり、人々の食生活は安定し、人口も増えていきます。弥生(やよい)時代は700年ほど続きました。

米を食べるようになって生まれたのが、弥生(やよい)土器です。
米をにるのに熱が伝わりやすいよう、うすくてじょうぶなつくりです。
米を主食とし、何種類かのおかずを副食として食べるスタイルが生まれました。

狩(か)りや漁で自然にとけこんだ暮らしをしていた縄文(じょうもん)時代から、組織的に米を育て、安定した暮らしの弥生時代へ。米作りの発展が人々の暮らしを大きく変えたのです。



 

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