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第2回 卑弥呼~むらからくにへ~

第2回 卑弥呼~むらからくにへ~

卑弥呼(ひみこ)は、今から1800年ほど前に日本にいた、なぞの女王です。
卑弥呼が得意だったのは、「まじない」です。

女王・卑弥呼が乱れたくにぐにをまとめた
3世紀ごろに日本の邪馬台国(やまたいこく)を治めた女王のことが書かれています。
当時の日本は「倭国(わこく)」といい、数十の国々から成っていました。
各地で争いが起こり、大きく乱れていたといいます。そこへ、一人の女性が王として立てられます。卑弥呼です。「鬼道(きどう)」とよばれるまじないの力を使い、女王・卑弥呼が乱れたくにぐにをまとめ、治めたのです

各地の争いの原因は?
弥生時代のものとされる佐賀県の「吉野ヶ里遺跡(よしのがりいせき)」。
ここには当時の建物のほか、水田も再現されています。
水田で作られるものといえば…米。実はこの「米」が、争いの原因になったのです。
この時代、中国からもたらされた米作りの技術が発達しました。
人々をまとめる指導者が現れ、計画的に米を作るようになります。
そして人々は定住し、「むら」を作ります。米を保存する技術も生まれ、安定して食糧(しょくりょう)を確保できるようになりました。

むら→くにへと変化した
米作りに欠かせない水や土地をめぐって、むら同士で戦いが起こります。
戦いの名残りは、吉野ヶ里遺跡にも見ることができます。
見張り用のやぐらや、敵の侵入を防ぐための深い濠(ほり)。
戦いでなくなったとされる人の骨には、骨のあいだに矢じりが残っているものもあります。
やがて、争いに勝ったものがむらを従えて大きくなっていき、くにを形作るようになります。
卑弥呼の生きた日本、それは、米作りをきっかけに、むらがくにへと変化していった時代でした。

卑弥呼とはどんな人?
『魏志倭人伝』の卑弥呼について書かれた一節です。
「卑弥呼の姿を見たものは少なく、千人の侍女(じじょ)に身のまわりの世話をさせていました。部屋に出入りを許されたのは一人の男性だけ。卑弥呼は、まじないや占(うらな)いの結果をその男性を通して人々に伝え、政治を行いました」。

魏を後ろ盾にして力を知らしめた
239年、卑弥呼は、当時、中国で勢いのあった魏(ぎ)へ使いを送ります。
使いのお礼として卑弥呼は魏から、「日本の王」を意味する「親魏倭王(しんぎわおう)」の称号(しょうごう)をあたえられます。
さらに、銅で作られた鏡「銅鏡(どうきょう)」をもらいました。
魏の皇帝(こうてい)は、「国じゅうの人に鏡を示し、魏が後ろ盾(だて)にあることを知らせなさい」と言ったとされます。
日本各地の王の墓から見つかる銅鏡は、卑弥呼が配ったのではといわれています。
卑弥呼は、魏を後ろ盾にして、自分の力を知らしめたのです。

邪馬台国はどこに?

絶大な力を手にしていた卑弥呼。
「卑弥呼、もって死す」。
この記述のあと、卑弥呼は『魏志倭人伝』から姿を消します。
邪馬台国の女王・卑弥呼。その最期も、なぞに満ちています。













・米作りに「むら」から「くに」へと変化。
・239年 卑弥呼、親魏倭王、銅鏡。

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