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第26回 伊能忠敬~蘭学の発展~

第26回 伊能忠敬~蘭学の発展~

■ scene 01 正確な地図を作るために

伊能忠敬は、江戸時代、50歳(さい)をこえた体で日本全国を歩きまわり、地図を作る旅を続けました。
忠敬が旅に出る前の、江戸時代の地図を見ると、たとえば北海道が不思議な形にえがかれています。
当時、正確な地図がなかったのです。
忠敬は正確な地図を作るために、風の日も、雪の日も、ひたすら歩き続けました…。


■ scene 02 50歳で天文学を学ぶ

伊能忠敬は、江戸時代の後半、精密な日本地図を作った人物です。
今から200年ほど前、鎖国(さこく)が続く日本に新しい学問が流行します。
幕府に貿易を許されていたオランダからもたらされた「蘭学(らんがく)」です。
当時の千葉県で商人をしていた忠敬は、なかでも天文学に興味をいだきました。
50歳(さい)のとき、忠敬は決心します。
家業を息子にゆずり、江戸で天文学を学ぶことにしたのです。
忠敬は、江戸で幕府の天文学者・高橋至時(よしとき)に弟子入りします。
熱心に勉強する忠敬の姿に心打たれた至時。
忠敬を尊敬し、ともに研究に明け暮れました。


■ scene 03 地球の大きさを知りたい

忠敬には壮大(そうだい)な夢がありました。
地球の大きさを知ることです。
そこで、日本のさまざまな場所で北極星を観測し、見える角度の差と距離(きょり)から、地球の大きさを計算しようと考えたのです。
そのためには、江戸から、今の北海道である蝦夷地(えぞち)までの広い範囲(はんい)で北極星を観測する必要がありました。
忠敬は、幕府がほしがっていた「蝦夷地の正確な地図」を作ることを名目に、測量の旅の許可をもらいます。


■ scene 04 一歩一歩歩いて測量

1800年、55歳(さい)の忠敬率いる測量隊が江戸を出発。
長い地図作りの旅の幕開けでした。
測量には、田畑を測るのに使われていた方法を用いました。
「梵天(ぼんてん)」という目印を立て、そのあいだの距離(きょり)を、一歩一歩歩いて測ります。
そして方位磁石を細かく使って、正確な方位を導いていきます。
歩くことができないけわしい海岸は、船から海になわをわたして測量し、緻密(ちみつ)な線をえがきました。
旅の合間に北極星の観測も続け、地球の外周をおよそ4万kmと導き出しました。
忠敬の夢がかなったのです。
1800年、55歳(さい)の忠敬率いる測量隊が江戸を出発。
長い地図作りの旅の幕開けでした。
測量には、田畑を測るのに使われていた方法を用いました。
「梵天(ぼんてん)」という目印を立て、そのあいだの距離(きょり)を、一歩一歩歩いて測ります。
そして方位磁石を細かく使って、正確な方位を導いていきます。
歩くことができないけわしい海岸は、船から海になわをわたして測量し、緻密(ちみつ)な線をえがきました。
旅の合間に北極星の観測も続け、地球の外周をおよそ4万kmと導き出しました。
忠敬の夢がかなったのです。


■ scene 05 ドキリ★全国を歩いて地図作りに取り組んだ

忠敬が自らの足で作り上げた、江戸から蝦夷地(えぞち)までの地図。
その精密さにおどろいた将軍・徳川家斉(いえなり)は、今度は全国の地図を作るよう命じます。
忠敬の地図作りの旅が再び始まったのです。

■ scene 06 17年にもわたった測量の旅

幕府の命令で大規模になった地図作り。
人手も増え、より精密に測量できるようになります。
忠敬の測量の旅は17年にもわたりました。
老いた体で旅を続けた忠敬。
ほおはこけ、歯はぬけ落ちていたといいます。
それでも歩みを止めませんでした。
娘(むすめ)への手紙にその気持ちが書かれています。
「今までだれもやったことのない地図作りに取り組み、諸国をめぐる。ありがたいことだ」。
1818年、地図の完成を目前に、忠敬は73歳(さい)で亡くなります。
仲間たちは忠敬の思いを果たそうと、地図の完成を急ぎます。


■ scene 07 ドキリ★現在の日本地図の基礎となった

1821年。
ついに日本列島の地図『大日本沿海輿地全図(だいにほんえんかいよちぜんず)』が完成します。
歩いて測量した、日本で初めての本格的な地図です。
歩いた道のり、およそ4万km。
くしくも、地球一周と同じ距離(きょり)でした。
この地図は、私たちが今日使っている日本地図の基礎(きそ)となっています。

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