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6  中国文明 ~戦国時代と始皇帝~

6  中国文明 ~戦国時代と始皇帝~

中国の歴史について、日本では「中国4000年の歴史」とよく言われますが、周さんによると、古い時代のことも少しずつ分かってきており、中国では5000年の歴史があると考えられているとのことです。

現在、私たちの身の回りのものの至る所で「Made in China」という言葉を目にするようになりました。
しかし、なぜ中国はChinaと呼ばれるようになったのでしょうか。

周さんによると、秦の始皇帝は、中国5000年の歴史で最も有能で、最も極悪非道だと言われているそうですが、
天下統一を果たした人物として、周さんも尊敬しているといいます。

1974年、中国で井戸を掘っていた農民が兵士の像を発見します。
そこには、8000体を超える兵士や馬の像が埋まっていました。
彼らが取り巻いているのは大きな墓でした。
墓の持ち主は、古代中国の最大のカリスマと呼ばれる、秦の始皇帝です。

今回は、始皇帝が生きた紀元前の中国を見ていきます。

始皇帝は今から2200年前、バラバラだったこの大陸を統一し、中国という国を誕生させました。
そのため、初めての皇帝=始皇帝といいます。

地下軍団「兵馬俑(へいばよう)」は、なぜ始皇帝の墓を取り巻いていたのでしょうか?

現在の中国は、始皇帝が絶大な権力を持っていたからこそ、成立したと言えます。
その礎になったとも言える、紀元前の中国の歴史を紹介します。


まず、中国が始皇帝によって統一される前に、戦国時代を迎えた経緯を見てみましょう。
紀元前16世紀は、実在が確認されている最も古い王朝である「殷(いん)」の時代でした。
当時、人々は占いによって政治や軍事を行っていました。

紀元前11世紀、「周」の時代に入ると、王の下で「諸侯」という有力者が地域を支配するという仕組みが確立しました。
このころ社会は安定していました。
しかし、やがて「周」は、内乱と外敵の侵入で衰えてしまいます。


周の時代に、鉄を使う技術が誕生しました。
鉄のスキを、牛にひかせる農法が広まり、農業生産はたちまち増大します。
すると皆が、土地を求めて、争いを始めました。

紀元前4世紀、諸侯たちが自ら「王」を名乗り、「戦国の七雄」と呼ばれる7つの国が誕生しました。
七雄は土地を奪い合い、戦争を繰り返していました。
多くの兵が犠牲になり、多くの難民を生みました。

550年も続いたこの戦乱の時代を「春秋戦国時代」といいます。
この戦乱の世に終止符を打ったのが、始皇帝です。
 
始皇帝は紀元前3世紀、秦の王と踊り子だった母との間に、「政(せい)」として誕生しました。
始皇帝は、生まれた時には、敵国に人質として捕らえられていました。
その後、祖国へ戻り、13歳という若さで秦の王となります。

しかし、始皇帝に実権はありませんでした。
当時1万人もの家来をかかえた、呂不韋(りょふい)という男が、絶大な権力を持っていました。
呂不韋は、始皇帝にとって邪魔な存在でした。

しかし、ある日、事件が起きます。
始皇帝の母が愛人を持ち、密かに二人の子どもをもうけていました。
これは、始皇帝にとって自らの地位を脅かしかねない大問題でした。
しかも呂不韋は、この事件を知っていながら始皇帝に隠していたのです。

始皇帝は二人の子供を即刻処刑し、母親を追放します。
また事件を理由に、呂不韋も追放しました。
こうして王としての本来の力を手に入れ、始皇帝は中国統一に向けて、動き出しました。

始皇帝は法をつくり、戦で功績をあげたものは、身分に関係なく出世させると定めます。
始皇帝自身が踊り子の母を持つ身であったため、身分など関係ないと考えたのです。

始皇帝のとった実力主義は、秦の軍事力を高め、兵の忠誠をより強いものにしました
この圧倒的な軍事力を以て、他国の攻撃に乗り出します。
そして紀元前221年、ついに中国統一を果たしました
秦の時代の幕開けです。 

この秦の国が、現在の中国の始まりでもあります。
中国を表す「CHINA=チャイナ」は、「秦」という国の名前から生まれたものです。
秦が統一を果たしたことで、現在の中国、チャイナが誕生しました。
ゲストの周さんによれば、秦がなければ、今の中国はないと言っても過言ではないといいます。

複雑な家庭環境で育った始皇帝は、本当の王の子ではなく、呂不韋の子どもだったのではないかという噂もあります。
始皇帝の母親は、呂不韋の元恋人だったとされ、母親が后になった時には、既に始皇帝を妊娠していた可能性が
あるのです。
つまり始皇帝は、意図せず父親を追い込んでしまった可能性もあったと考えられます。


えりさんは、古代中国を舞台にした漫画『キングダム』の作者に会いにきました。

漫画キングダムの舞台は、紀元前3世紀、春秋戦国時代の中国です。
後に始皇帝となる、秦国の若き王「政」が、戦争で親兄弟を無くした少年「信(しん)」とともに、中国統一を
目指し戦う物語です。

史実に基づいたストーリー展開で、戦乱の時代を圧倒的なスケールで描き、現在はアニメ化もされている
人気作品です。
作者の 原 泰久さん

原さんは大学卒業後、サラリーマンを経験し、夢だった漫画家になるために退職します。
初めての週刊誌連載で『キングダム』が大ヒットとなりました。

原さんは春秋戦国時代について、名前しか知らない程度だったといいます。
ところが軽い気持ちで、始皇帝の時代の歴史を唯一記した歴史書である「史記」を読むと、そこには壮大なドラマが展開されていました。
原さんは、国ごとに記されている歴史を年表化し、国と国とのつながりに気づいたそうです。
その年表を横に見ていくと、戦いの場所がリンクし、どういった経緯で戦ったかのかが繋がるといいます。
原さんはこうして史記を読み、始皇帝をテーマにすることを決めたといいます。

特に惹かれたのは、始皇帝という人物だといいます。
そもそもの生い立ちが、敵国のただ中で生まれたという、壮絶なものでした。
さらに、抗うことのできない呂不韋という政敵が間近にいて、彼を打倒した後、比較的短い時間で中国統一を果たしました。

またキングダムでは、何十万という兵がぶつかる戦のシーンが、まるでその場にいるかのように、リアルに描かれています。
原さんは、残虐な部分は、本当は書きたくないという思いがあるといいます。
しかし歩兵などは虫のように次々と死ぬ戦場であり、それをくり返した上での中華統一であったはずです。
そのため始皇帝を描くためには、必ず戦いを描く必要があると考えているといいます。

原さんは、読者に春秋戦国時代に興味を持ってもらうために、法律や文化、しくみなどは二の次にして、どういう人物がどういう思いで何のために戦ったかというドラマを意識して前面に出しているといいます。
まずは人物ドラマに興味を持ってもらって、それから背景の社会状況を調べてもらえればいいと考えているそうです。
インタビューしたえりさんも、『キングダム』を読んだ時は、まず漫画で人物に興味を持ち、それから史実を調べている、とのことでした。

中国を統一した後、始皇帝は広い大陸を一つに束ねるための政策を実行します。
それまで地域によってバラバラだった文字や、重さの単位、そして通貨を統一しました。

また全国をいくつかの郡にわけ、その下に県をおいた「郡県制」という体制を整えました。
都から官僚を送り、地方へも支配を行き届かせるためでした。
更に、都と全国各地を結ぶ幹線道路も作りました。
こうして、権力と権限を、都にいる始皇帝に集中させました。


更に始皇帝は、自分の権力を形あるものとして残そうと、万里の長城の建設に乗り出します。
多くの民衆を使い、あの城壁を作らせたのでした。

こうして全てを手に入れたかに思えた始皇帝でしたが、どうしても手に入らないものの虜になっていました。
「不老不死」です。

始皇帝の周りには、始皇帝とともに政治を行う官僚のほか、不老不死を唱える方士(ほうし)や古い教えを
あがめる学者たちがいました。

しかし、いつも「古から学べ」とブレーキをかける学者たちと、いつまでたっても不老不死の薬を持ってこない方士たちに、始皇帝は苛立ちます。
そして始皇帝の政治にそぐわない書物を焼き払い、更には都近くの谷で方士や学者、460人余りを生き埋めにしてしまいました。
これが、焚書坑儒(ふんしょこうじゅ)という事件です。

こうした横暴で、民衆の心が離れていくことに、始皇帝は気づいていませんでした。

結局、始皇帝がこの世を去ってすぐに秦は滅び、統一からわずか15年で、幕を閉じることとなりました。

始皇帝の墓である始皇帝陵は、現在でも世界最大の容積を持つ陵墓として知られています。

この始皇帝陵から、1.5km離れたところで発見されたのが、地下軍団の兵馬俑(へいばよう)です。
彼らは、天下を制覇した最強軍団、秦の兵士たちです。
死後の世界でも、始皇帝陵を守るために埋められたと考えられています。

このように、始皇帝は極悪非道と言われるほどの、強い君主でした。
しかし、彼のように力を持ったものが現れなければ、550年続いた戦国時代は終わることもなく、中国も統一されなかったかもしれません。
強い権力を持ってこそ、広い大地を一つにまとめることができたと言えます。
始皇帝なくして、現在の中国という国の存在を語ることはできません。

周さんは、始皇帝を尊敬していますが、焚書坑儒はやりすぎだと感じているようです。
現代の中国の知識人は、始皇帝に対してアレルギーを持ち、嫌っているといいます。
今でも、もし始皇帝のような人物がいれば、自分たちも同じように弾圧されるかもしれないからです。


兵馬俑の兵士は、全て発掘されたわけではありませんが、全部で8000体と言われています。
その規模から、墓というよりは、地上の帝国を地下に作ろうとしたと考えられています。
鶴間先生は、それを地下帝国と呼んでおり、地上にある様々なものを、全て地下に埋めたといいます。
兵馬俑はそのうちの一部だというのです。


始皇帝よりさかのぼった殷の時代にも、やはり死者を埋葬するのに、地下に墓室を設けていました。
内部には、沢山の青銅器が埋められました。

戦国時代になると、王の墓に絹や漆器の耳坏(じはい)などを沢山入れていました。

始皇帝陵の近くからは、銅車馬が出土しました。
銅車馬は、始皇帝が実際に乗った車の2分の1のミニチュアの馬車で、全て青銅で作られました。

このような地下帝国を作ることは、自分の作り上げた帝国の自己主張だったのかもしれません。

地下帝国に埋められたものは、始皇帝一人のために作られたものでした。
それらの出土によって、当時のあらゆる技術について、現代の私たちも知ることができます。
調査が進めば、より色々な歴史がわかるかもしれません。

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