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7 漢帝国の皇帝 ~劉邦から武帝へ~

漢帝国の皇帝 ~劉邦から武帝へ~

漢帝国は、現在まで続く「中国」という国の土台を作ったとも言える帝国です。
その帝国を陰で支えていたのが、初代皇帝の妻・「呂雉(りょち)」でした。
呂雉は生涯を通じて夫を支え、子を育て、家臣らを導き、安定した支配を確立するために力を尽くしました。

今回のテーマは、紀元前3世紀末から紀元3世紀初めまでの漢帝国です。
およそ400年間中国を統一支配した漢帝国は、その後の歴代中国王朝のモデルとなり、周辺の国々にも様々な影響を与えました。

その証拠に、「漢字」や「漢文」など、私たちの周りには「漢」とつく言葉をいくつも見つけることができます。

今回は中国の原点ともいうべき、漢帝国の歴史を見ていきます。


「漢」は元々地名で、中国のほぼ中央にある、現在の陝西省(せんせいしょう)周辺のことを言います。
それが、現在では中国全体を表す言葉になっています。
林さんの母も北京出身の漢民族で、中国の南の方に住んでいる人のほとんどは漢民族だといいます。

日本でも、それに似た言葉として「大和(やまと)」が挙げられます。
大和はもともと、えりさんの出身地・奈良の昔の呼び方でしたが、現在は「大和魂」や「大和撫子(なでしこ)」などのように、日本全体を表す言葉となっています。


秦の始皇帝は、中国の統一という大事業を成し遂げはしましたが、その後の政治はあまり誉められたものではありませんでした。
急激な改革、相次ぐ土木事業や対外戦争などで民衆を苦しめていました。


呂雉の父親は、常日頃から呂雉(りょち)の嫁ぎ先は高貴な人に限ると言っていました。
ところがある日、宴の席で出会った農民出身の男に、呂雉との結婚を申し込んできたと言い出します。

その男は、沛(はい)という町で亭長(ていちょう)という治安維持を主とする仕事をしていました。
亭長は、秦の下級役人です。
しかし彼こそが、後に漢帝国初代皇帝となる「劉邦(りゅうほう)」でした。
呂雉の父はひと目見るなり、劉邦の人相に惚れ込んでしまったといいます。
顔が長く、鼻は高く突き出た「龍顔」という、滅多にない人相をしていたそうです。
実際、劉邦は親分肌で人望が厚く、人を引き付ける魅力がありました。

呂雉は劉邦との間に二人の子をもうけ、つつましやかに、しかし幸せに暮らしていました。
ところが、ある出来事をきっかけに、呂雉たちの運命は大きく動き始めます。
紀元前210年、秦の始皇帝が亡くなり、各地で秦の支配に対する反乱が起こります。
呂雉の夫・劉邦もその戦いに身を投じ、やがて反乱軍のリーダー格にまでのし上がっていきます。

反乱軍には、もう一人リーダーがいました。
それが、のちに劉邦のライバルとなり、覇権を巡って争うこととなる「項羽」です。
項羽は、秦に滅ぼされた「楚」という国の名門貴族の家に生まれ、若いうちから兵法を学んでいました。
さらに身長2mを超える巨漢で、人並みはずれた武力を誇るエリート軍人でした。

項羽と劉邦は、性格もかなり違っていました。
始皇帝について言った言葉に、それがよく表れています。

項羽は、祖国を滅ぼされた恨みもあって、「あいつに取って代わってやる」と反骨心をあらわにしたといいます。
しかし劉邦は、「男に生まれたからには、あのようになりたい」と言いました。
始皇帝の偉大さを受け入れる懐の深さがあったといえます。


紀元前206年、劉邦と項羽の二人の活躍によって秦は滅びます

その後、楚の国の復興を掲げる項羽と、漢の地に拠点を得た劉邦、いずれが権力を握るかの争いになりました。
この戦いは「西楚覇王(せいそはおう)」と名乗った項羽と、「漢王(かんおう)」劉邦の戦いだった
ことから、「楚漢(そかん)戦争」と呼ばれています。
戦いは、項羽が優勢でしたが、最後の最後で勝利したのは劉邦でした。

この時、項羽軍を包囲した劉邦の軍勢が、楚の国の歌を唄い出します。
思いがけず故郷の歌を耳にした項羽は、多くの兵士が劉邦側に寝返ったと驚いて絶望したといいます。
四面楚歌(しめんそか)」という言葉の元になった、大変有名なエピソードです。

項羽を倒した劉邦は、家臣の勧めにしたがって皇帝の座に就きました。
その後400年にわたって中国を支配した漢帝国は、紀元前202年、このようにして誕生したのでした。

農民出身の劉邦に対して、項羽は貴族出身で兵法も武力も優れたエリートでした。
このように項羽一人の能力値は高いものでしたが、それに比較して劉邦には人望がありました。
仲間の助力で劉邦が皇帝になることができたことを考えれば、明暗を分けたのは器の広さだったのかもしれません。

真っ直ぐで信念の強かった項羽は、生きて降伏する道を選ぶことはせず、最期は将軍としてのプライドを保つために自害してしまいます。


劉邦が秦に対する反乱戦争に身を投じたとき、呂雉は劉邦の実家で、家業の農業を手伝いながら、二人の子どもを
育てていました。

劉邦が皇帝に即位してからは、安定した支配を実現するため、様々なアドバイスをします。
漢帝国が400年続いたのは、呂雉の存在があったからこそと言っても過言ではありません。

例えば領土について、劉邦は都の長安周辺には皇帝が直接支配する「郡」や「県」を置き、地方には楚漢戦争に功績のあった部下たちを王とする「国」を置きます。
これは「郡国制」と呼ばれる統治方法でした。

しかし呂雉は、王となった部下がよからぬことを考えていることを見抜き、劉邦に助言します。
そこで劉邦は、部下たちを王の座から追い落とします。
そして劉氏一族の者が王となって、皇帝をもり立てる体制に切り替えていきました。
これにより、ほとんどの王国は劉氏一族が王となりました。

「劉氏にあらざる者は王たるべからず」が、暗黙の了解となっていきます。
やがて紀元前195年、劉邦がこの世を去ると、二代皇帝には、呂雉と劉邦の息子である恵帝が即位します。
しかし恵帝は気の弱いところがあり、呂雉が支える必要があると考えたため、漢帝国の行く末は呂雉に委ねられることとなりました。


呂雉はまず、劉邦が他の女に産ませた男子を殺し、その女は見せしめの意味も含めてむごい仕打ちで死に至らしめました。

また、漢帝国の支配を磐石なものにするために、劉氏一族だけでなく、呂雉の一族・呂氏が共に支える体制を目指しました。
例えば、各地の王の半分は、呂氏に任せようとします。

こうした呂雉のやや強引な行いを、ひどく罵る人々も中にはいました。

しかし一方で呂雉は、民衆に対しては、戦争や土木工事などに駆り出すことをしませんでした。
民衆が、なるべく安らかに暮らせるように取り計らったのでした。
後の歴史書には、「天下は安泰で、罪人も少なく、民は農業に精を出して衣食も豊かになった」と高く評価されています。


劉邦の死から15年後、支配体制は未確立のまま、呂雉にも寿命がやってきます。
そして呂雉の死後、呂氏一族はことごとく排除されてしまいました。

「劉氏のみによる支配体制では、一族同士の権力争いが起きるのではないか」という呂雉の不安は、やがて現実のものとなってしまいます。

中国において、呂雉は、武則天(唐・高宗の皇后)と西太后(清・咸豊帝の妃)と並び「三大悪女」の一人として数えられています。
日本にも「三大悪女」と呼ばれる歴史上の人物がいました。
その一人が「尼将軍」と呼ばれた北条政子です。

北条政子も呂雉も、気が強そうな女性というイメージがあります。
しかしそこには、夫が作った国をなんとか滅びないように盛り立てようという、妻としての心意気が
あったのかもしれません。


呂雉の死後、劉氏一族内の争いによって、ややもすると漢帝国の統一支配が崩れてしまいかねない大きな事件が起きます。
紀元前154年、7人の劉氏の王が、皇帝に対して反乱を起こしたのです。
主な国の名前をとった、「呉楚七国の乱(ごそしちこくのらん)」と呼ばれる戦乱です。

この乱が起きた背景には、各地の王が、皇帝に匹敵する力を持っていたということがあります。
その証拠となるのが、高貴な人を葬るときに着せる「金縷玉衣(きんるぎょくい)」です。
金縷玉衣は「玉」と呼ばれる、表面を磨き上げて板状に加工した石を、純金で作った糸「金縷」で
つづり合わせたものです。
玉には、遺体を腐敗から守る働きがあると考えられていました。
また金の糸を使うのは、最高の葬り方であって、後の時代には皇帝に限られるようになります。

ところが、このころには、王でありながら金縷玉衣で葬られたケースがありました。
これは独立した権力として振舞っていた王の存在を示しています。


呉楚七国の乱は、3か月ほどで、皇帝側の勝利に終わります。
この事件の後、皇帝は各地の王の力を削り、皇帝権力の強化を進めていくことになります。
そして建国からおよそ60年後の紀元前141年に即位した、第7代皇帝・「武帝」が支配を確立します。

漢帝国はそれ以降、さらに300年以上中国を支配し、この国の土台を作り上げました。
そればかりか、周辺の国々にも計り知れない影響を及ぼしました。
日本にも伝わる、漢帝国の皇帝から下された金印「漢委奴国王印」が、何よりも雄弁にそれを物語っています。


漢帝国の支配体制を築いた武帝は、秦の始皇帝を意識し、おそらく尊敬していたと考えられます。
始皇帝と同様に、内政では全国を回り、泰山で「封禅」という天と地を祀る儀式を行いました。

外政については、
北…匈奴との戦争
南…雲南省に入り南越を滅ぼす
西…シルクロードの敦煌に軍を置く
東…朝鮮半島に侵攻
のように派兵、対外戦争をして、周辺の地域を領土に入れていきました。

このように「中華帝国」という、巨大で様々な民族をとり込んだ帝国を立てたのが、武帝でした。


また、漢帝国の中で、元号を使用したのは武帝です。
元号は、始皇帝も使いませんでした。
元号の制定は土地という空間だけでなく、時間も支配することを示すためだったと考えられています。
現在、日本で昭和や平成などの元号が使われているのは、武帝が元号を使用したことに始まります。

漢帝国は400年もの長い間続きました。
有名な四面楚歌の他にも、面白いエピソードがあるといいます。
現在では漢を舞台にしたマンガやドラマ、映画などもあり、分かりやすく作られています。
こういった作品を見ることで、漢について楽しく掘り下げることもできるかもしれません。













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