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横田五郎兵衛(ごろべえ)。川越藩の御用達(ごようたし)商人、実業家で、川越藩につくし、藩財政に深く関わる <川越の先人

横田五郎兵衛(ごろべえ)。川越藩の御用達(ごようたし)商人、実業家で、川越藩につくし、藩財政に深く関わる    <川越の先人

埼玉りそな銀行川越支店 
埼玉県における国の登録有形文化財登録第1号

・1834年~
1892年没。59歳


  横田家は、新河岸川の舟運で財を成しました。横田五郎兵衛は、南町に店を構え、醤油の醸造、穀物仲買商を営みました。

江戸にも出店し、川越藩16番目の藩主・松平斉典(なりつね、1816~1850)の時代には隆盛を極め、関東の長者番付の大関にも登場しました。

  川越藩の御用達(ごようたし)商人を命ぜられ、勘定奉行格にもなった特権商人でした。

  横田五郎兵衛は、川島の築堤工事、黒船来航の防衛の一部を負担しました。

1822年、イギリスの捕鯨船サラセン号が浦賀沖に現れました。川越藩は、相模国に分領があったために、会津藩に代わって、浦賀奉行を助けることになり、藩主・松平斉典(なりつね)は900人超を動員しました。
沿岸警備に要する経費は莫大で、横田家が藩に用立てしました。

  1878年(明治11年)には、横田五郎兵衛は、綾部利右衛門(りうえもん)などと埼玉りそな銀行(旧・第八十五国立銀行)の創設発起人となりました。
設立後は2代頭取に就任ました。
銀行は、横田五郎兵衛邸の屋敷の一角を借りていました。

  中原町の中央小学校の創設にも力を尽くしました。

1819年には、五百石の士分格に取り立てられました。

しかし、川越藩への調達資金は年々増大しました。
植林、治水、築堤の他に、黒船来航時の防衛費負担などで家運は傾いてしまいました。

このように川越藩の民生、藩財政に深く関わり、多くの資産を手放なさざるを得ませんでした。59歳で没しました。

  横田家の墓地は、末広町の養寿院にあり、埼玉りそな銀行、料亭山屋、松本醤油商店方面を遠望しています。
埼玉りそな銀行は、横田五郎兵衛邸の一角でした。
料亭山屋は、横田五郎兵衛の別邸でした。
松本醤油商店は、横田家の醤油部門でした。

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