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源頼朝。1185年、日本最初の武家政権、鎌倉政権を建てる。2月9日没

源頼朝。1185年、日本最初の武家政権、鎌倉政権を建てる。2月9日没
源 頼朝
・1147年5月9日。名古屋~1199年2月9日。53歳


1159年    平治の乱((平治元年の源氏と平氏の戦いがはじまります。
13歳の頼朝は、父・源義朝とともに、
平清盛との戦
に打って出ます。

父の源義朝は戦死します。
子の頼朝は重罪人の流刑地・伊豆(伊豆の国市)へと追放されます。
平氏は勢力をのばします。



頼朝は、武士に「自分の領地を支配できる権利をあたえるぞ」とよびかけます。


5年に及ぶ源平の合戦で、源氏は勝ち進み、
平氏を山口県 壇ノ浦に追いつめます。

頼朝は、打倒 平氏の悲願を果たします。

1185年 源氏は、壇ノ浦の戦いで平氏をほろぼします。
鎌倉時代は150年続きます。



1189年には奥州藤原氏をほろぼします。

1192年に征夷大将軍(せいい たいしょうぐん)となり、武家政権を確立します。

征夷大将軍とは、坂上田村麻呂のように東北地方の
風俗のちがう人々を征伐する将軍のことです。


鎌倉時代には、生産性が向上します。
公家文化に対し、
動的で写実性に富む武家文化がおこります。


わかりやすい新仏教6宗もおこります。
平安までは、仏教は貴族のもので、国を守るもので、
庶民には無関係でした。
        浄土宗 … 法然  浄土真宗 … 親鸞  日蓮宗 … 日蓮  時宗 … 一遍
        臨済宗 … 栄西  曹洞宗 … 道元


将軍と御家人(ごけにん)とのあいだに主従関係が結ばれます。
封建制度は後年 日本の大きな財産となります。


源頼朝の死後、実権は頼朝の妻政子と北条家にうつリます。
北条家は、執権となり政治を独占します。


・・・・・・・・・・・
【※】源頼朝メモ

頼朝が清盛の「失敗」を反面教師として学んだことは、
京都から離れた土地に、
貴族の朝廷とは独立した政権をつくる
」ことです。

目的は、武士の政権を関東に作ること。 
貴族ってのは農民のアガリをかすめていく人たちです。
武士というのは「農業経営者」です。


初の武家政権を生み出すには、修羅にならなくては、理想は実現しない。

源頼朝は、文官の養成も怠りなく、
「事務処理能力」でも中央に見劣らなくします。
土地関係の裁判も丁寧にやり、評判は高くなります。
    ∵自らの有する土地の権益確保こそ御家人の最大の関心事です。

【7分】【漫画】源頼朝の生涯~罪人から大将軍へ~ 


【源頼朝 関係年表】

・1159年    平治の乱。
頼朝の父、源義朝が平 清盛(たいらのきよもり)に殺される。

・1180年    源頼朝、平氏をたおすため、兵をあげる。
石橋山の戦いでは平氏軍に負ける。
富士川の戦いで平氏軍に勝つ。

・1184年
源義経が平氏と戦い、平氏を京都から追いはらう。

・1185年
源義経が壇ノ浦の戦いで平氏をほろぼす。

・1192年
源頼朝、征夷大将軍となり、鎌倉幕府を開く。
700年間にわたる武家政権を建てる。

・1199年
源頼朝がなくなる。53才。



【※】

・後白河上皇

後白河上皇は、武士の勢力をおさえるために武士同士を争わせます。
源氏 vs 平氏。
源義仲(木曽義仲)vs 源頼朝。
源義経 vs 源頼朝。


・奥州藤原氏

平安時代後期、平泉を中心にさかえ、4代つづきますが、1189年源頼朝にほろぼされます。
初代 藤原清衡(きよひら),
2代 基衡
(もとひら)
3代 秀衡
(ひでひら)
4代 泰衡
(やすひら)の4代


武家政治は700年

鎌倉幕府+室町幕府+織豊政権+江戸幕府。
源頼朝、足利尊氏、徳川家康などの征夷大将軍が幕府を組織します。
織豊(しょくほう)政権は、1568信長の入京から1600関ヶ原までです。 鎌倉の前の時代は、 桓武天皇の794年から1185年までの400年間の平安時代です。


北条氏による政治

頼朝の死後、幕府の実権は頼朝の妻 政子(まさこ)の北条氏にうつりました。
13世紀後半、元の大軍が北九州をおそいました。 この元寇(げんこう)を境に幕府の勢はおとろえ、1333年にほろびました。

執権 北条氏 【+2】NHK 


 源頼朝は暗殺されていた!? 【+13】
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